デジタル大辞泉
「芥川也寸志」の意味・読み・例文・類語
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芥川 也寸志
アクタガワ ヤスシ
昭和期の作曲家,指揮者 日本音楽著作権協会理事長。
- 生年
- 大正14(1925)年7月12日
- 没年
- 平成1(1989)年1月31日
- 出生地
- 東京・田端
- 学歴〔年〕
- 東京音楽学校研究科〔昭和24年〕修了
- 主な受賞名〔年〕
- ブルーリボン賞(音楽賞)〔昭和28年・33年〕,毎日映画コンクール音楽賞〔昭和28年・49年〕,ザルツブルグオペラ賞〔昭和43年〕,日本童謡賞〔昭和48年〕,鳥井賞(第8回 昭51年度),日本アカデミー賞音楽賞〔昭和53年〕,紫綬褒章〔昭和60年〕,レコード・アカデミー賞(大賞)〔昭和62年〕,日本童謡賞(特別賞 第25回)〔平成7年〕「小林純一・芥川也寸志遺作集 こどものうた」
- 経歴
- 芥川龍之介の三男。東京音校時代、作曲家・伊福部昭、早坂文雄らに影響を受ける。昭和28年團伊玖磨、黛敏郎らと「三人の会」を結成、戦後派の第一線に立って管弦楽曲など発表。一方、放送、バレエ、映画音楽、童謡まで手がけ、幅広く活動。NHKの音楽番組「音楽の広場」に7年にわたって出演したほか、アマチュアの新交響楽団を31年に創設、音楽監督を務める。また56年には日本音楽著作権協会理事長に就任。主な作品に「弦楽のための三楽章“トリプティーク”」「エローラ交響曲」、オペラ「暗い鏡(広島のオルフェ)」、童謡「ぶらんこ」「小鳥のうた」、著書に「私の音楽談義」「音楽を愛する人に―私の名曲案内」などがある。没後、音楽界への貢献を記念し、平成2年芥川作曲賞が創設された。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
芥川也寸志
あくたがわやすし
[生]1925.7.12. 東京
[没]1989.1.31. 東京
作曲家。小説家芥川龍之介の三男として生まれる。兄は俳優の芥川比呂志。1945年東京音楽学校作曲科を卒業。在学中に恩師の伊福部昭に出会い大きな影響を受けた。1950年に出世作となった『交響管弦楽のための音楽』を発表,日本放送協会 NHK主催の NHK放送 25周年記念管弦楽懸賞で特選入賞を果たした。初期の作風は,現代ロシア音楽の影響が色濃く,1953年にはソビエト連邦のドミトリー・ショスタコビッチらを訪問。1957年インドのエローラ石窟寺院を訪れ,翌 1958年発表した『エローラ交響曲』ではアジア的世界を表現した。オペラ『暗い鏡』(1960),『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』(1969),『オルガンとオーケストラのための響き』(1986)などの作品で新しい世界を提示した。また,日本作曲家協議会会長,日本音楽著作権協会理事長として音楽家の活動基盤の整備に奔走,新交響楽団などアマチュアオーケストラの支援活動,NHKの音楽番組「音楽の広場」での司会など,幅広い活動を行なった。
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芥川也寸志
あくたがわやすし
(1925―1989)
作曲家。東京都生まれ。芥川龍之介の三男、兄は俳優の芥川比呂志(ひろし)。1943年(昭和18)東京音楽学校(現、東京芸術大学)本科作曲部に入学。翌1944年学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、敗戦とともに復学。橋本国彦、伊福部(いふくべ)昭に師事し、1949年同研究科を卒業。1950年『交響管絃楽のための音楽』がNHK放送25周年記念管弦楽懸賞に特選入賞した。1953年『弦楽のためのトリプティーク』を発表、團伊玖磨(だんいくま)、黛(まゆずみ)敏郎と「三人の会」を結成。1958年『エローラ交響曲』、1960年オペラ『広島のオルフェ』(1967年『暗い鏡』と改題)、1969年『チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート』、1986年『響』などを発表し、戦後の管弦楽、創作オペラの第一線で活躍した。また、指揮者として新しい交響楽団を育成、テレビ司会者としても人気を集めた。1982年以降は「反核・日本の音楽家たち」運動に奔走し、日本作曲家協議会長、日本音楽著作権協会長を務めた。平成1年1月31日没。
[編集部]
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芥川也寸志【あくたがわやすし】
作曲家。東京都出身。作家芥川龍之介の三男。東京音楽学校(現,東京芸術大学)研究科卒業。1950年に《交響管弦楽のための音楽》でNHK創立25周年記念懸賞の管弦楽作品として特賞入賞,これが出世作となる。1953年に団伊玖磨(いくま),黛敏郎とともに〈三人の会〉を結成,前衛的な音楽を発表した。一方,ラジオ劇や映画音楽の作曲,テレビの司会者などとして幅広く活動した。1981年から日本音楽著作権協会理事長を務め,著作権擁護などに尽力した。主な作品は管弦楽の《交響三章》,映画音楽の《砂の器》《八甲田山》《八つ墓村》など多数。
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芥川也寸志 あくたがわ-やすし
1925-1989 昭和時代後期の作曲家。
大正14年7月12日生まれ。芥川竜之介の3男。芥川比呂志の弟。伊福部昭(いふくべ-あきら)らにまなび,昭和28年団伊玖磨(だん-いくま),黛敏郎(まゆずみ-としろう)と「三人の会」を結成。テレビの音楽番組でも活躍した。日本音楽著作権協会理事長,日本作曲家協議会会長。平成元年1月31日死去。63歳。東京出身。東京音楽学校(現東京芸大)卒。代表作にオペラ「暗い鏡」,著作に「音楽の基礎」「音楽の旅」など。
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芥川 也寸志 (あくたがわ やすし)
生年月日:1925年7月12日
昭和時代の作曲家;指揮者。日本音楽著作権協会理事長
1989年没
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世界大百科事典(旧版)内の芥川也寸志の言及
【童謡】より
…しかし,子どもの流行歌としての〈レコード童謡〉の量産がその質の低下をもたらし,戦後再び子どもの歌の運動が起きた。〈赤い鳥〉の流れをくむ詩人サトウハチロー(1903‐73)や新進作曲家団伊玖磨(1924‐ ),芥川也寸志(1925‐89),中田喜直(1923‐ )らによるもので,NHKのラジオ番組〈歌のおばさん〉を媒介とし,ここから《めだかの学校》《ぞうさん》など,簡単な旋律でありながら,芸術味のある歌が誕生した。ついで中田喜直,磯部俶(1917‐ )らによる〈ろばの会〉が結成され,彼らは〈レコード童謡〉のイメージから脱皮すべく童謡の名称を用いず,〈こどものうた〉とよんだ。…
※「芥川也寸志」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」