花柳寿輔(読み)ハナヤギジュスケ

デジタル大辞泉 「花柳寿輔」の意味・読み・例文・類語

はなやぎ‐じゅすけ【花柳寿輔】

[1821~1903]日本舞踊花柳流創始者・家元。初世。江戸の人。4世西川扇蔵の門下。江戸歌舞伎の振り付けに活躍し、劇界・舞踊界の第一人者として、多くの作品を残した。代表作品「勢獅子きおいじし」「船弁慶」など。

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精選版 日本国語大辞典 「花柳寿輔」の意味・読み・例文・類語

はなやぎ‐じゅすけ【花柳寿輔】

  1. 日本舞踊花柳流家元。
  2. [ 一 ] 初世。江戸の人。六歳で四世西川扇蔵に入門して舞踊を習う。嘉永二年(一八四九)花柳流を樹立。幕末から明治期の歌舞伎劇場の立振付師として活躍。作品は「戻橋」「勢獅子(きおいじし)」など多数。文政四~明治三六年(一八二一━一九〇三
  3. [ 二 ] 二世。初世の子。大正七年(一九一八)二世寿輔を襲名。古典舞踊の保存につとめる一方、同一三年花柳舞踊研究会を起こし、新舞踊も推進。同流を日本舞踊最大の流派に育てた。明治二六~昭和四五年(一八九三‐一九七〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「花柳寿輔」の意味・わかりやすい解説

花柳寿輔
はなやぎじゅすけ

日本舞踊花柳流の家元名。

[如月青子]

初世

(1821―1903)7世市川団十郎のもとで歌舞伎(かぶき)役者として修行したが19歳で廃業。幼時、入門していた4世西川扇蔵(せんぞう)門下に戻り、西川芳次郎(よしじろう)を名のる。師につき添い歌舞伎界における振付けを学んだが、師没後の西川一門の争いのなかで破門されたのち花柳芳次郎と改名し、1849年(嘉永2)花柳流を創流。翌1850年寿助と改め、1851年から中村・市村河原崎(かわらさき)座の振付を兼ね、1860年(万延1)に寿輔と改める。名振付師として劇界に活躍。『勢獅子(きおいじし)』『土蜘(つちぐも)』『船弁慶(ふなべんけい)』『茨木(いばらき)』など数多くの作品がある。明治中期以降は、2世藤間勘右衞門にその地位を明け渡すこととなった。

[如月青子]

2世

(1893―1970)初世の実子。本名花柳芳三郎(よしさぶろう)。父没後、歌舞伎界に入り、やがて6世尾上(おのえ)菊五郎の部屋子となり尾上菊太郎を名のるが、6年後、歌舞伎界を離れて舞踊家への道を選び、1918年(大正7)2世を継ぐ。新舞踊運動の先達となり「花柳舞踊研究会」をおこす。一方、古典研究の会も重ね、また、歌舞伎界の振付けを続けた時期もあり、多彩な活動を行った。『独楽(こま)』『黒塚(くろづか)』『夢殿(ゆめどの)』をはじめ振付け作品多数。1960年(昭和35)重要無形文化財保持者(人間国宝)、1963年寿応(じゅおう)を名のった。

[如月青子]

3世

(1935―2007)2世の娘わかばが1963年(昭和38)に継ぐ。翌1964年から父にかわり「花柳舞踊研究会」を主宰。流儀の運営機構を整え、講習会や若手育成などに努め、充実をはかった。父の三回忌にその志を生かす花柳寿応賞を制定した。代表的作品は『夢殿』『こうのとり』など。

[如月青子]

4世

(1931―2020)4世花柳芳次郎の子で本名花柳寛(ひろし)。伯父である2世寿輔に師事。1967年(昭和42)5世芳次郎を襲名。3世家元の後見人を長く務めた。2007年(平成19)寛応(かんおう)を名のったのち4世家元寿輔を襲名。2016年に家元を孫に譲り、寿応を名のって家元の後見人を務めた。

[如月青子]

『河竹繁俊編『初代花柳寿輔』(1936・花柳家元蔵版)』『三代目花柳寿輔編『二世花柳寿輔』(1972・白凰社)』『『花わけ衣――二代目花柳寿輔二十三回忌を迎えて』(1992・三代目寿輔発行)』

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「花柳寿輔」の解説

花柳 寿輔(初代)
ハナヤギ ジュスケ


職業
日本舞踊家 振付師

肩書
花柳流家元(初代)

旧名・旧姓
磯部

別名
前名=西川 芳松,西川 芳次郎(初代),俳優名=市川 鯉吉

生年月日
文政4年 2月19日

出生地
江戸・芝明神前(東京都)

経歴
江戸に玩具商・三国屋清兵衛の長男として生まれる。4歳の時に吉原の台屋魚吉こと鶴岡吉五郎の養子となる。養父が芸事を好んだことから6歳の時に4代目西川扇蔵に入門。8歳で7代目市川団十郎の門に移り、市川鯉吉を名乗る。文政11年(1828年)「廓文章」の夕霧で初舞台を踏む。19歳の時に養父を失い、これを機に俳優から振付師へ転身し、旧師西川扇蔵に入門して西川芳次郎の名で活躍。師の没後、相弟子の妬みから破門され、嘉永2年(1849年)姓を花柳に改めて独立。3年(1850年)寿助、万延元年(1860年)寿輔と改名。江戸三座の振付師を兼任、安政の大地震以後は4代目市川小団次、河竹黙阿弥と並び劇壇の三幅対を称された。幕末から明治中期にかけて振付師の第一人者として重きをなした。明治21年傲岸不屈の性格が9代目市川団十郎との不和を招き、9代目の振付を辞す。以後、主に5代目尾上菊五郎の振付を行ったが、一時ほどの勢いを失った。

没年月日
明治36年 1月28日 (1903年)

家族
二男=花柳 寿輔(2代目),孫=花柳 寿輔(3代目),養子=花柳 徳太郎(日本舞踊家)

伝記
初代 花柳壽輔 薫る寿 加野 厚志 著(発行元 阪急コミュニケーションズ ’05発行)


花柳 寿輔(3代目)
ハナヤギ ジュスケ


職業
日本舞踊家

肩書
花柳流家元(3代目) 日本芸術院会員〔平成11年〕

本名
花柳 若葉(ハナヤギ ワカバ)

別名
前名=花柳 わかば

生年月日
昭和10年 1月10日

出生地
東京市 京橋区木挽町(東京都中央区)

学歴
青山学院女子短期大学国文科〔昭和32年〕卒

経歴
花柳流創始者である初代花柳寿輔の孫で、2代目寿輔の長女。父に師事して5歳で初舞台を踏み、花柳わかばを名乗る。昭和37年第1回花柳わかば舞踊会を開催。38年28歳で3代目寿輔を襲名、花柳流3代目家元を継承。39年より父に代わり花柳舞踊研究会を主宰。55年家元制度を批判する日本舞踊家・花柳幻舟に刺され怪我を負ったが、その後も約3万人の弟子を擁する日本舞踊最大流派を束ね、後進の指導に尽くした。発表作品に「萩と月」「石川のいらつめ」「孤宴」など。著書に「柳緑花紅」「女らしさ」「2代目花柳寿輔」「花はくれない」などがある。

所属団体
花柳舞踊研究会,日本舞踊協会

受賞
日本芸術院賞(平元年度)〔平成2年〕 芸術祭賞優秀賞〔昭和44年・54年〕

没年月日
平成19年 5月23日 (2007年)

家族
父=花柳 寿輔(2代目)

親族
叔父=花柳 芳次郎(4代目),またいとこ=花柳 芳次郎(5代目)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「花柳寿輔」の意味・わかりやすい解説

花柳寿輔 (はなやぎじゅすけ)

歌舞伎振付師,舞踊家。(1)初世(1821-1903・文政4-明治36) 江戸芝神明に生まれ,4世西川扇蔵の門に入り,芳松と名のった。一時7世市川団十郎の弟子となり,のち再び4世扇蔵の弟子となって,西川芳次郎と改名した。振付の才能を発揮し,4世没後,流派の内紛を機に,花柳芳次郎と改めて花柳流を起こした。その後も寿助,寿輔と度々改名し,河竹黙阿弥と協力して幕末,明治の劇界に名振付師として活躍した。おもな振付は,《忠臣蔵十一段返し》《勢獅子(きおいじし)》《連獅子》《土蜘(つちぐも)》《茨木》《船弁慶》《戻橋(もどりばし)》《釣女》などがある。(2)2世(1893-1970・明治26-昭和45) 初世寿輔の実子。初世の没後,6世尾上菊五郎の弟子となり,尾上菊太郎と名のったが,1918年に2世寿輔をつぎ,新舞踊運動の先達となった。1963年花柳寿応と改名。おもな振付に《夢殿》《木賊刈(とくさかり)》などがある。重要無形文化財保持者,日本芸術院会員。(3)3世(1935-2007・昭和10-平成19)2世の実子。64年に襲名。
執筆者:

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20世紀日本人名事典 「花柳寿輔」の解説

花柳 寿輔(2代目)
ハナヤギ ジュスケ

大正・昭和期の日本舞踊家 花柳流家元(2代目)。



生年
明治26(1893)年10月3日

没年
昭和45(1970)年1月22日

出生地
東京・浅草

本名
花柳 芳三郎

別名
前名=尾上 菊太郎,後名=花柳 寿応(ハナヤギ ジュオウ)

主な受賞名〔年〕
舞踊芸術賞〔昭和30年〕,日本芸術院賞〔昭和31年〕,勲三等旭日中綬章〔昭和42年〕

経歴
初代花柳寿輔の子として5歳の時から舞踊の手ほどきを受け、10歳で父と死別。明治37年6代目尾上梅幸、6代目尾上菊五郎の門弟となり尾上菊太郎を名乗る。43年歌舞伎界を離れ、父の後を継ぎ大正7年2代目寿輔を襲名し、花柳流2代目家元を継承。13年には花柳舞踊研究会をつくり意欲的に作品を発表、舞踊界に新風を送った。14年歌舞伎座付の振付師となり、2代市川猿之助(後猿翁)一座の振付を担当、猿翁十種と呼ばれる「独楽」「黒塚」などの新舞踊を振付した。戦後は日本舞踊協会会長、理事としても活躍。昭和31年に日本芸術院賞、33年ブリュッセル万博に文化使節として一行とともに出演。35年には人間国宝の指定を受けた。38年娘のわかばに寿輔の名を譲り、自分は寿応と名乗る。他の代表作品に「夢殿」「新編越後獅子」「花咲く春」「綾の鼓」など。著書に「寿輔芸談」がある。46年生前の業績を記念して花柳寿応賞(のち花柳寿応新人賞)が制定された。

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朝日日本歴史人物事典 「花柳寿輔」の解説

花柳寿輔(初代)

没年:明治36.1.28(1903)
生年:文政4.2.19(1821.3.22)
幕末明治期の劇界に君臨した劇場振付師。日本舞踊花柳流流祖。前名は西川芳松,芳次郎。田町の大師匠,雷師匠と呼ばれて畏敬され,錦絵にまで描かれた。江戸芝神明前の玩具商三国屋清兵衛の長男で,幼くして新吉原の台屋魚吉の養子となる。6歳で4代目西川扇蔵に入門,少年時代は7代目市川団十郎門下の役者で市川鯉吉と称した。19歳のとき養父の死を契機に振付を一生の仕事として選び,4年後には市村座の番付に名を連ね,抜群の才能を示す。弘化2(1845)年に師の扇蔵が没すると,相弟子の妬みから破門された。29歳で花柳姓に改め吉原を地盤に独立,翌年団十郎の俳名寿海老人の一字を貰って寿助,のちに寿輔と改名。江戸三座の振付師を兼ね,安政の大地震後は4代目市川小団次,河竹黙阿弥と共に劇壇の三幅対とうたわれた。晩年は剛毅の性格ゆえに9代目市川団十郎と摩擦を生じ衰運に向かったが,その性格によって今日に振付師の権威が高められたともいえる。振付の処女作が「勧進帳」の延年の舞,最後の代表作が「釣 女」で,その間の約60年に振り付けた作品数は1500以上とも。「かっぽれ」などの市井の風俗物から,「土蜘」「船弁慶」など高尚な松羽目物に至るまで,レパートリーは幅広い。2代目は劇場振付師,3代目は花柳流の初めての女性家元で劇場振付からは離れた。<参考文献>河竹繁俊編『初代花柳寿輔』

(丸茂祐佳)

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百科事典マイペディア 「花柳寿輔」の意味・わかりやすい解説

花柳寿輔【はなやぎじゅすけ】

日本舞踊の花柳流家元。初世〔1821-1903〕は4世西川扇蔵門下(西川流)で,1849年花柳流を創始。幕末から明治期の振付の名手。2世〔1893-1970〕は初世の次男。古典の再吟味と新作に意を尽くし,1924年花柳舞踊研究会を設立。1960年人間国宝,1963年寿応を名乗る。3世〔1935-2007〕は2世の長女。
→関連項目茨木花柳寿楽

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「花柳寿輔」の意味・わかりやすい解説

花柳寿輔(1世)
はなやぎじゅすけ[いっせい]

[生]文政4(1821).2.19. 江戸
[没]1903.1.28. 東京
日本舞踊花柳流家元。6歳で歌舞伎舞踊の4世西川扇蔵に入門。8歳で7世市川団十郎の門弟となったが,天保 10 (1839) 年振付師を志して,扇蔵のもとに帰り,西川芳次郎と改名。市村座の座元市村羽左衛門に認められ,同座の振付師となった。嘉永2 (49) 年花柳芳次郎を名のり,花柳流を樹立。翌年寿助と改称。万延1 (60) 年寿輔と改称。7世団十郎と河竹黙阿弥の知遇を得て,幕末から明治中期まで江戸歌舞伎の振付師の代表として活躍したが,9世団十郎と不和になり,晩年は不遇であった。代表作は『勢獅子』『土蜘』など。

花柳寿輔(2世)
はなやぎじゅすけ[にせい]

[生]1893.10.3. 東京
[没]1970.1.22. 東京
日本舞踊花柳流家元。本名花柳芳三郎。6世尾上梅幸,6世尾上菊五郎に入門し,菊太郎を名のって俳優修業をしていたが,19歳で俳優をやめ,1918年9月2世寿輔を襲名し家元となる。 24年4月花柳舞踊研究会を興し,古典の保存と日本舞踊の革新にも努力。翌年歌舞伎座の振付師になった。 60年重要無形文化財保持者,62年日本芸術院会員。翌年娘わかばに3世寿輔を襲名させて家元とし,みずからは寿応と改名した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「花柳寿輔」の解説

花柳寿輔(4代) はなやぎ-じゅすけ

1931- 昭和-平成時代の日本舞踊家。
昭和6年3月22日生まれ。4代花柳芳次郎の子。伯父の2代花柳寿輔に師事。昭和11年初舞台。42年5代花柳芳次郎を襲名。わかくして新作を発表し,振り付けの評価もたかい。平成11年舞踊芸術賞,13年芸術院賞。19年4代花柳寿輔を襲名。23年芸術院会員。日本舞踊協会常任理事。東京出身。早大卒。本名は寛(ひろし)。

花柳寿輔(2代) はなやぎ-じゅすけ

1893-1970 大正-昭和時代の振付師,日本舞踊家。
明治26年10月3日生まれ。初代花柳寿輔の次男。6代尾上菊五郎のもとで役者修業。17歳のときから舞踊に専念し,大正7年2代寿輔を襲名。13年花柳舞踊研究会をおこした。昭和32年芸術院賞。35年人間国宝。37年芸術院会員。38年寿応と改名。振り付け作品に「独楽」「黒塚」などがある。昭和45年1月22日死去。76歳。東京出身。本名は芳三郎。

花柳寿輔(初代) はなやぎ-じゅすけ

1821-1903 幕末-明治時代の振付師,日本舞踊家。
文政4年2月19日生まれ。19歳のとき歌舞伎役者から振付師に転向。4代西川扇蔵に再入門し,西川芳次郎を名のる。嘉永(かえい)2年(1849)花柳姓にあらため花柳流をおこし,万延元年(1860)寿輔と改名。江戸三座の振付師をかね,代表作に「勢獅子(きおいじし)」「船弁慶」などがある。明治36年1月28日死去。83歳。江戸出身。

花柳寿輔(3代) はなやぎ-じゅすけ

1935-2007 昭和後期-平成時代の日本舞踊家。
昭和10年1月10日生まれ。2代花柳寿輔の長女。父に師事し,花柳わかばを名のる。昭和38年3代寿輔を襲名,翌年花柳流家元を継承。平成2年芸術院賞。11年芸術院会員。古典の継承とともに創作舞踊に取り組み,後進の指導にもつくした。平成19年5月23日死去。72歳。東京出身。青山学院女子短大卒。本名は若葉。

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367日誕生日大事典 「花柳寿輔」の解説

花柳 寿輔(2代目) (はなやぎ じゅすけ)

生年月日:1893年10月3日
大正時代;昭和時代の振付師;日本舞踊家
1970年没

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世界大百科事典(旧版)内の花柳寿輔の言及

【元禄花見踊】より

…作曲3世杵屋(きねや)正次郎。振付初世花柳寿輔ほか。上野の山の花見で,湯女,武士,若衆,町娘,奴,町人など元禄の風俗を写した総踊。…

【三人片輪】より

…作曲7(8)世岸沢式佐,9世杵屋六三郎。振付初世花柳寿輔。本行狂言から摂取。…

【猩々】より

…【横道 万里雄】(2)歌舞伎舞踊,長唄 1874年7月,東京芝に河原崎座が新築開場したとき踊られたもので,本名題《寿二人猩々》。作詞3世河竹新七,作曲3世杵屋(きねや)正次郎,振付初世花柳寿輔。松羽目物。…

【土蜘∥土蜘蛛】より

…【横道 万里雄】(2)歌舞伎舞踊,長唄 1881年6月,新富座で5世尾上菊五郎が3世の33回忌に初演の《土蜘》。作詞河竹黙阿弥,作曲3世杵屋(きねや)正次郎,振付初世花柳寿輔。(1)に拠った舞踊は,江戸時代の顔見世舞踊の重要な演目であったが,すっかり能ばなれしていた。…

【花柳流】より

…日本舞踊の流派。流祖は初世花柳寿輔(じゆすけ)。寿輔は4世西川扇蔵の門弟として西川芳次郎を名のったが,4世扇蔵の没後,西川流から独立して,1849年(嘉永2)花柳芳次郎と改名,花柳流を創立した。…

【船弁慶】より

…作曲2世杵屋正次郎。振付初世花柳寿輔。演者9世市川団十郎。…

【北州】より

…作曲者が吉原の芸者であったので,廓の雰囲気がよく表現されている。素踊として初世花柳寿輔が振り付けたが,各流にもほとんどそのまま受け継がれている。江戸の社交場であった吉原を背景に,遊客,太鼓持,遊女,禿(かむろ),武士などさまざまな人物像を踊り分けねばならぬ難曲とされている。…

【戻橋】より

…作曲6世岸沢式佐。振付初世花柳寿輔。配役は渡辺源次綱を初世市川左団次,扇折娘小百合実は愛宕山悪鬼を5世尾上菊五郎ほか。…

【独楽】より

…作曲3世常磐津文字兵衛。振付2世花柳寿輔。初世猿之助(のちの2世段四郎)が1874年に踊った《人形売独楽姿見(にんぎよううりこまのすがたみ)》を改訂し,新作として発表したもの。…

【日本舞踊】より

…しかし理想が高すぎ,規模があまりに壮大だったため実現せずに終わった。しかし大正に入ると,逍遥のまいた種は新舞踊運動となって展開,藤蔭静枝(藤蔭静樹)の〈藤蔭会(とういんかい)〉,五条珠実(1899‐1987)の〈珠実会〉,花柳寿美の〈曙会〉など女流舞踊家による新舞踊の会が発足,また2世市川猿之助,5世中村福助の〈羽衣会〉,2世花柳寿輔の〈花柳舞踊研究会〉なども新しい動きをみせた。
[種類と流派]
 歌舞伎舞踊は大きく〈儀式舞踊〉〈劇舞踊〉〈風俗舞踊〉の3種に類別できるが,また題材別に見ると,〈祝儀物〉〈三番叟物〉〈道成寺物〉〈石橋物(獅子物)〉〈浅間物(あさまもの)〉〈狂乱物〉〈変化物〉〈松羽目物〉等になる。…

※「花柳寿輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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