茶屋は、古く紅屋(べにや)・紺屋(こうや)がそれぞれ紅・藍(あい)を染めたように、主として黒系統の染色を専業とする染め屋を称したものである。茶屋染めというのは、江戸前期の寛永(かんえい)年間(1624~44)に京都の茶屋宗理という茶染め屋が染め始めた模様染めであるといわれる。当時のものがどのようなものであったかについては、実物資料も残っていないのでよくわからないが、『守貞(もりさだ)漫稿』の著者喜田川守貞はこれを、いにしえの葦手(あしで)風の模様を染め出したもので、たとえば、住吉に関した和歌と住吉社頭の風景を表したようなものであるといっている。こうしたいわゆる文字入りの小袖(こそで)はかなり古くからあり、とくに江戸中期以後の小袖には、たとえば『和漢朗詠集』などの詩や歌の一部を文字で表して、これに関係のある絵模様をつけた、いわゆる「文字入り」の模様が多いが、あるいはこれに類するものであったのかもしれない。
今日茶屋染めというと、ほとんど、江戸中期以後、殿中で武家の女性が盛夏の候に用いた麻の帷子(かたびら)に藍を主としてこれに茶・黄などを加え、さらに刺しゅうを施した茶屋辻(ちゃやつじ)、また本辻といわれるものをさし、前者は染めが主で、これに部分的に刺しゅうを加えて、多く水辺風景の模様などを表したもの、後者は藍または黒に摺(す)りで赤茶色の疋田(ひった)を加え、全体に豪華な刺しゅうの入ったものをいっているようである。いずれにしても麻地に絵模様を描き染めしたもので、染料が藍を主としたものであるから、友禅染めのような塗り彩色でなく、浴染、もしくは引き染めによったものと思われ、技術的には、桃山以前からあった小紋系の型染めと江戸中期以後の友禅染めとの中間に位する手描き糊(のり)防染の絵模様染めと考えられる。
[山辺知行]
夏の帷子(かたびら)の染法。寛永(1624-44)ころ,京都の呉服商茶屋四郎次郎が創案したという。茶屋染は《万金産業袋》(1732)に南京渡の染付陶器のように手を尽くした藍染と記され,《貞丈雑記》に住吉社頭の風景を絵にした葦手(あしで)文様を染めたものとある。楼閣山水文様を藍一色で染めたもので,一部に黄色を用いたものや刺繡を加えたものがある。生地は越後,能登,薩摩などの上質の上布を用いる。染法は生地に型紙を置いてのり(糊)を伏せ,藍瓶(あいがめ)に浸染する。地を白く残すために楼閣山水の緻密な文様の輪郭を糸目のりで埋めて両面からのり防染を施すので,たいへんな手間と熟練した技術を必要とした。小袖1領の製作に数ヵ月を要し,高額の費用がかかるため徳川宗家および三家,三卿の殿中の着用に限られたという。文様が類型的で変化に乏しいきらいはあるが,藍一色のさっぱりした色彩が爽涼感を誘い,品格が高い。なお,茶屋辻という名称があり,《貞丈雑記》に〈茶屋辻とて間々にかのこを入れて画き染たるもあり〉とあるが,茶屋染との区別はわからない。
執筆者:伊藤 敏子
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