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荻原重秀 おぎわらしげひで

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

荻原重秀
おぎわらしげひで

[生]万治1(1658).甲州?
[没]正徳3(1713).9.25. 江戸
江戸時代中期,元禄頃に活躍した幕臣。財政的才能を5代将軍徳川綱吉に認められて勘定所下役から勘定組頭,さらに元禄9 (1696) 年勘定奉行にまで出世した。元禄期の幕府財政は窮乏し,それの打開のため貨幣改鋳を行い,その出目 (でめ) によって財政危機を乗切ろうとした。一時的には幕府財政も潤ったが,品質の悪い貨幣出現のため経済の混乱を招いた。結局,幕府財政も物価騰貴のため再び窮乏するが,重秀に対する将軍の信頼は大きく,新井白石の,貨幣改鋳で私腹を肥やした重秀糾弾も容易ではなかった。

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デジタル大辞泉の解説

おぎわら‐しげひで〔をぎはら‐〕【荻原重秀】

[1658~1713]江戸中期の幕臣。勘定奉行。通称、彦次郎。貨幣改鋳を行い、一時的に幕府の財政難を救った。私利をむさぼったとされ、新井白石弾劾により失脚

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百科事典マイペディアの解説

荻原重秀【おぎわらしげひで】

江戸中期の幕臣。1696年勘定頭(のちの勘定奉行)となる。1695年勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)時代に建言して貨幣改鋳(元禄金銀)による財政難の救済を行う。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

荻原重秀 おぎわら-しげひで

1658-1713 江戸時代前期-中期の武士。
万治(まんじ)元年生まれ。幕臣。元禄(げんろく)9年勘定奉行にすすむ。幕府財政窮乏打開のため貨幣の改鋳・増発を実施したが,その政策に反対する新井白石らの弾劾により失脚した。正徳(しょうとく)3年9月26日死去。56歳。通称は五左衛門,彦次郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

荻原重秀

没年:正徳3.9.26(1713.11.13)
生年:万治1(1658)
江戸前・中期の幕臣。通称は五左衛門,彦次郎。幕臣十助種重の次男。延宝2(1674)年勘定となり,翌年廩米150俵を給さる。天和3(1683)年勘定組頭に進み,100俵加増。貞享4(1687)年総代官の会計検査を命じられ,その年勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に昇進し,300石加増,廩米を改められて550石の地方知行取となる。元禄2(1689)年200石,8年1000石加増。翌9年には勘定頭に進み,250石を加増され,従五位下近江守に叙任。さらに11年500石,宝永2(1705)年700石,7年500石を加増され,計3700石の知行取となる。徳川綱吉時代の後半から徳川家宣時代にかけて幕府財政を主導したが,正徳2(1712)年新井白石の弾劾により失脚。貨幣改鋳や貿易政策など,彼の商品経済への積極的な対応は評価できるが,その反面商人との結びつきにより腐敗が生じたことは否定できない。

(深井雅海)

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世界大百科事典 第2版の解説

おぎわらしげひで【荻原重秀】

1658‐1713(万治1‐正徳3)
江戸中期の幕臣,政治家。通称五左衛門のち彦次郎。曾祖父は武田の遺臣徳川氏に仕え,父種重は蔵米200俵をうける勘定所下役。彼も勘定所下役から出発,延宝(1673‐81)の畿内総検地で頭角をあらわし,将軍綱吉初政に断行された総代官の会計検査に特命されて当たったといわれ,1687年(貞享4)に勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に進み,95年(元禄8)には彼の建議により,いわゆる元禄の改鋳がおこなわれ(元禄金銀),96年には勘定頭に栄進,以降1712年(正徳2)までその職にあって幕府の財政問題を主宰した。

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大辞林 第三版の解説

おぎわらしげひで【荻原重秀】

1658~1713) 江戸中期の幕臣。勘定奉行として貨幣改鋳を行い、幕府の財政難を緩和したが、悪貨鋳造で物価が騰貴し、私利の追求をとがめられて失脚した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

荻原重秀
おぎわらしげひで
(?―1713)

江戸中期の幕府役人。1674年(延宝2)勘定役に任用され、5代将軍徳川綱吉(つなよし)の代に至りその才能を認められて躍進。87年(貞享4)勘定頭差添(さしそえ)役(後の勘定吟味(ぎんみ)役)に任ぜられ、96年(元禄9)には勘定奉行(ぶぎょう)に昇り、従(じゅ)五位下近江守(おうみのかみ)に叙任。俸禄(ほうろく)もしばしば加増されて150俵から3700石に至り、勘定所の独裁者的存在となった。重秀は幕府財政の窮乏を通貨の悪鋳、増発によってしのぐ政策を95年から実施し、ことに1710~11年(宝永7~正徳1)悪鋳を連続したので、経済界は混乱した。そのため新井白石(あらいはくせき)の懸命の糾弾を受け、12年失脚した。その死後、莫大(ばくだい)な賄賂(わいろ)を受けていたことが発覚し、その子乗秀は3000石を没収された。[辻 達也]

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世界大百科事典内の荻原重秀の言及

【江戸幕府】より

…綱吉は遺金分配を廃し,80年堀田正俊を農政・国用専管の老中とし,82年(天和2)勘定吟味役を創置,不正代官51名を死罪または免職にした。89年(元禄2)小普請金を創設し収入増をはかったが,館林家臣団の幕臣編入,役料復活,綱吉の大名邸御成(おなり)と恩賜,造寺造仏への支出が膨張したので,荻原重秀は95年より慶長金銀を改悪し500万両の利益を収めたという。97年6000両の酒運上,99年貿易利潤から年数万両を収公する長崎運上金制度を設定した。…

【佐渡金山】より

…その後金銀山はしだいに衰えの速度を速め,寛文期(1661‐73)には衰退の極に達した。91年(元禄4)奉行荻原重秀は海岸から鉱山に向けて大疎水(南沢疎水。900m余)を掘るなど10年ほどの間に総額15万両にも及ぶ大投資を行い,鉱山は一時活気をとり戻すが,享保改革にともなって大縮小を余儀なくされた。…

【地方直し】より

…その対象となった旗本は6500俵以下500俵以上のもので523人に及んだ。これを考案し建策したのは勘定奉行荻原重秀で,そのねらいとするところは幕府の財政立直しとともに幕府権力の集中強化にあった。この地方直しの特徴として3点をあげることができる。…

【正徳の治】より

… 実質的な施策は,家宣の治世が3年余であったので件数は乏しいが,12年勘定吟味役を復活したことは,財政・統治機構の整備強化の面で享保改革の前駆をなす。これと関連して,白石の強い糾弾でようやく家宣も認めた勘定方の独裁者荻原重秀の奉行免職は,従来重秀への評価が白石の《折たく柴の記》の記事に影響されてもっぱら重秀の善悪能否の問題に限られており,今後より客観的な評価を必要とするが,ともかくひとつの政策的転機であった。重秀は家宣の将軍就任直後,財政難解決のため通貨改鋳を提案し,白石の反対により拒否されたが,独断で悪鋳を繰り返した。…

【宝永金銀】より

…このようにわずか5ヵ年間に銀貨が4回,金貨が1回改鋳が行われ,幣制は混乱した。これは元禄期の改鋳によって生じた金銀比価の不均衡を調整しようとしたものであったが,銀座年寄が幕府の勘定奉行荻原重秀と結託して,幕府は改鋳益金を収得し,銀座年寄は銀座収入の増大を意図したことによるところが大きい。その結果,江戸幕府は14年(正徳4)5月銀座の粛正を断行した。…

※「荻原重秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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