荻窪村(読み)おぎくぼむら

日本歴史地名大系 「荻窪村」の解説

荻窪村
おぎくぼむら

[現在地名]小田原市荻窪・おうぎ町一丁目・なか町一丁目・城山しろやま一―二丁目・さかえ町三丁目

西は伊張いはり山、北東久野くの川が流れ、中央を流れる湯本ゆもと(荻窪堰)を合する。南は谷津やつ村、北は久野村と接する。「北条記」に「宗仕と申数奇者、小田原へ下りて、茶の湯事外はやり(中略)(荻)窪、久野の野辺にも茶屋あり」とみえ、「異風の茶」を楽しむ北条氏の一門衆年寄衆巡礼虚無僧・行人などに変装して茶屋へ通った様子を記す。

荻窪村
おぎくぼむら

[現在地名]前橋市荻窪町

赤城山南麓のなだらかな傾斜地にあり、南は中亀なかがめ村、西は上泉かみいずみ村、北は横沢よこざわ(現勢多郡大胡町)、東は堀越ほりこし(現大胡町)。村域北部に浅い放射谷が走り、その一つを寺沢てらさわ川が流れる。村北部を日光裏街道が、村南端を前橋と大胡おおご(現大胡町)を結ぶ道がそれぞれ東西に通る。寛文郷帳に田方一二七石一斗余・畑方三七石八斗余とあり、「但松山雑木山芝野在」と記される。

荻窪村
おぎくぼむら

[現在地名]猪苗代町三郷みさと

堀切ほりきり村の西に位置し、南は同村の端村志津しづ。集落は大作だいさく山の西麓にあり、本村の北に端村午房作ごぼうさく(牛房作・牛蒡作などとも記す)がある。昔、当地一帯に荻が多く生育していたことが村名の由来という(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに荻窪とみえ、高三二五石余。享保三年(一七一八)には高四〇五石余、家数五二、男一〇〇・女一〇四、馬三五、天明六年(一七八六)には高四〇一石余、家数二九、男三八・女四〇、馬六(「留帳」小林家文書)。「新編会津風土記」によると家数は本村二四・午房作六。鎮守は稲荷神社。同社は猪苗代氏の祖三浦(佐原)経連が猪苗代地方に入部した折、当地の農民大作山の大蛇退治を経連に嘆願、経連は稲荷神に祈って大蛇を退治したので、建久八年(一一九七)五穀成就の神として稲荷神を勧請したのが草創と伝える(猪苗代町史)

荻窪村
おぎくぼむら

[現在地名]丸子町大字東内ひがしうち

内村うちむら渓谷中ほどにある村。東は和子わご村、西は平井村、南は所沢ところざわ峠を隔てて武石たけし(現武石村)、北は平井寺ひらいじ峠を隔てて平井寺村(現上田市)と境をなす。村内を東西に松本へ通ずる三才山越みさやまごえの古道(現県道丸子―荻窪線、その先は国道二五四号)が通じ、枝村に虚空蔵こくぞうの集落がある。古道沿いに残る「ねずみ垣外」の地名は、「不寝見」に通じ、古代の狼煙台に関係がある。

寛永元年(一六二四)検地内村が分割されて独立村となる。享保一〇年(一七二五)の信濃国小県郡荻窪村銘細帳(中村大康氏蔵)には検地は寛文一〇年(一六七〇)酒井忠能の時に実施、地形は「山方ニ而平地ニ而も無御座候」で「小石交り、極あれの土地と申義無御座候」であったが、一〇月から三月までは積雪で覆われ、紙漉が行われ煙草を少々産したとある。

荻窪村
おぎくぼむら

[現在地名]会津高田町荻窪

赤沢あかさわ川上流沿岸にあり、東は杉内すぎのうち村。南東に小名中村なかむらがある。近世は会津領から寛永二〇年(一六四三)以降南山御蔵入領で、永井野組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三三三石余。文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高三五一石余。化政期の家数は本村二七・中村五(新編会津風土記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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