日本歴史地名大系 「萱町」の解説 萱町かやまち 愛媛県:松山市松山城下萱町[現在地名]松山市湊町(みなとまち)・千舟町(ちふねまち)・三番(さんばん)町・平和通(へいわどおり)の各一部および萱町一―六丁目松山城下町の最西端を南北に貫通する町筋。古くは南から南新萱(みなみしんかや)町・南古萱(みなみふるかや)町・稲荷(いなり)町・松屋(まつや)町・岩井(いわい)町・南紺屋(みなみこんや)町・樽屋(たるや)町・北利屋(きたとぎや)町・西(にし)町と称した。南新萱町―西町まで一本の道路であって、松屋町の北端で東西に通る鶴屋(つるや)町と交わり、岩井町の北端で紙屋(かみや)町(東西の道)と交差する。萱・紺屋・樽屋・利屋の各町名は、延宝年間(一六七三―八一)の松山城下町図(伊予史談会蔵)のなかにみえる。 萱町かやまち 三重県:桑名市桑名城下萱町[現在地名]桑名市萱町伝馬(てんま)町の東北にあり、南北一条長さ二三八間の町屋敷地。北部を本萱(ほんかや)町、南部を新萱(しんかや)町と分称する。もとは萱の茂った洲崎であったが、慶長の町割で開発され、以後漸次南へと発展、新萱町が形成された。「久波奈名所図会」には「新萱町 本萱町の南を云、萱町内の小名なり」とある。町の東側には寺社が多く、法盛(ほうじよう)寺・最勝(さいしよう)寺(浄土真宗本願寺派)・顕本(けんぽん)寺(日蓮宗)があり、修験宗の不動院・般若院、また神社に天満宮・穴八幡がある。また寺内の塔頭・末寺も多くあり、城下北部の今一色寺(いまいつしきてら)町とともに、桑名仏教の中心地である。 萱町かやまち 群馬県:前橋市前橋城下萱町[現在地名]前橋市千代田町(ちよだまち)四―五丁目・三河町(みかわちよう)一丁目東西の榎町(えのきまち)通の北側にある、南東から北西への広瀬(ひろせ)川沿いの町並。西端で西に折れ立川(たてかわ)町に続く。茅屋町とも記す。貞享元年(一六八四)の「前橋風土記」に茅屋町として「道南北に通ず。其の北は板屋町広瀬川の急流に列る」と記される。明和八年(一七七一)一月一二日の大火により総家数四二軒が全焼、その竈数四七、うち土蔵二・寺院一であった(松平藩日記)。安永九年(一七八〇)一一月一六日の火災では総家数三七軒のうち三四軒焼失、その内訳は家主三三・店借一である(同日記)。 萱町かやちよう 青森県:弘前市弘前城下萱町[現在地名]弘前市萱町城の東側に位置し、北は和徳(わつとく)町、南は緑(みどり)町、東は植田(うえだ)町、西は南横(みなみよこ)町に接する。国日記正徳元年(一七一一)四月一二日条の新割町名之覚に「萱町 南横町新割屋敷之名」とあり、南横町の新割屋敷の地域を萱町とした。宝暦六年(一七五六)の弘前町惣屋鋪改大帳(市立弘前図書館蔵)によれば、和徳町の支配を受け、町屋は四一軒。町役は史料がないため不明であるが、元禄一四年(一七〇一)の地子銀の定に「北南横町壱軒ニ付拾文匁、但家数六拾五軒卯之年より当巳之年まで依願五文目」(御用格)とあり、南横町から分離成立した当時は、年に一軒につき一〇匁の出銀を命ぜられたと思われる。 萱町かやまち 三重県:鈴鹿市旧河曲郡地区神戸城下萱町[現在地名]鈴鹿市神戸(かんべ)八丁目常盤(ときわ)町に続いて南に延びる宿場町である。慶長九年(一六〇四)一柳直盛のとき「新儀ニ町ヲ御取立被成、茅町高拾弐石八斗一升御赦免被成候事」とある。町の長さ三町二九間、家数一一八(文政八年)あるので、南北の二町に数えることもある(その場合神戸総町は一二町となる)。北萱町で街路は「く」の字形に屈曲し、見通しを防いでいるのは城下町の特色である(以上、高野家家譜)。 萱町かやまち 愛知県:豊橋市吉田城下萱町[現在地名]豊橋市萱町上伝馬(かみでんま)町の南に続き、足軽屋敷に至る間の裏町。寛延三年(一七五〇)の吉田二十四町差出帳(橋良文庫蔵)によると、高二五石余、戸口は五三軒・二五八人、うち男一四〇・女一一八である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by