改訂新版 世界大百科事典 「人吉荘」の意味・わかりやすい解説
人吉荘 (ひとよしのしょう)
肥後国球磨郡内(現,熊本県人吉市域)に存在した荘園。本荘と東郷よりなり,1197年(建久8)の球磨郡田数注文(図田帳)によると,田数600町(公田数),本家は蓮華王院(れんげおういん),領家八条院,預所(あずかりどころ)中原清業(きよなり)で,人吉次郎,須恵小太郎,久米三郎など球磨郡各地の在地勢力が荘官となっていた。清業は八条院庁家司であった池大納言平頼盛の郎従であり,のち頼盛の嫡子光盛(円性)が当荘を領知していることからみて,1184年(元暦1)4月源頼朝が没官領から除き頼盛に安堵した〈球磨臼間野荘〉は当荘の前身とみられる。また人吉荘成立後も領家側は当荘を球磨荘と呼んでいること,在地荘官の顔ぶれなどからみて,当荘の成立以前に一郡的ひろがりの院領球磨荘の存在が想定される。それが鎌倉幕府成立後,関東御領(図田帳では500町)の設定に伴って再編成され,当荘が成立したと思われる。1205年(元久2)遠江国御家人相良長頼が当荘の地頭となり,おそらく下司(げし)人吉次郎の権限を継承し,急速に地頭領主制を展開するが,44年(寛元2)一族内の争いを機に当荘の半分=北方地頭職を北条氏に奪われた。その当時の田数は1198年検出の起請田(きしようでん)352町余,1212年(建暦2)検出の出田101町5反余,その後の検出の新田21町2反余で,起請田には佃(つくだ)や各種の除田が設定されていたほか,起請田と出田は稲富名,経徳名など19以上の領主名(りようしゆみよう)に編成されていた。70以上の有力な在家(ざいけ)が在家役の賦課対象としてあったほか,96年(永仁4)には稲富・豊永両名だけで31名の〈田のなぬしの人々〉が注進されている。起請田の所当は反別見米1斗,軽物3斗,出田は各2斗,新田は1~3斗をたてまえとしていたが,領家の年貢収納は,14世紀になると急激に悪化し,1334年(建武1)には10貫文の地頭請負となった。一方相良氏の領主制は一段と進展し,38年(延元3・暦応1)には相良定頼が北方地頭職を回復した。内乱初期に領家年貢は途絶し,荘としての実体は失われた。
執筆者:工藤 敬一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報