百科事典マイペディア 「沼田荘」の意味・わかりやすい解説
沼田荘【ぬたのしょう】
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安芸国沼田郡の荘園。沼田川流域一帯を中心として沼田郡の大部分を占めたもので,沼田本荘と新荘とに大別される。本荘だけでも7郷,あるいは8郷から構成されていた。本荘は河口に近く平野部の多い旧三原市西部や,その西隣の同市の旧本郷町一帯であり,新荘は沼田川上・中流部の山あいの村々や,さらに南にとんで現竹原市内の海ぞいの地域までを含んでいる。平安末期には京都蓮華王院の所領となっている。成立の経緯は明らかでないが,おそらく沼田氏が開発領主として荘域の開発・拡大につとめ,同氏によって平清盛造営の蓮華王院に寄進されたものと思われる。寄進者である沼田氏は代々沼田郡の郡司などの位置を占める在地豪族であり,下司として荘園を支配する実権を握ったと考えられる。沼田氏が平氏とともに滅亡したため沼田荘は平家没官領となった。やがて備前・備中・備後3ヵ国の惣追捕使(守護)であった土肥実平およびその子の遠平が地頭として入部してきた。その後その子孫である小早川氏が地頭職を相伝領掌するが,同荘における小早川氏の活動が明らかとなるのは遠平の孫の茂平からである。
沼田荘の中央にそびえる高山城に拠った小早川氏は,中世を通じて同荘の実質的支配を行った。鎌倉中期の調査では本荘の田地の耕作面積は250町余,新荘の田地が210町余で合計460町余となっている。また狩猟のほかにも牛馬の放牧などが行われていた。農業以外では林業,漁業,商業などが営まれており,海賊をはたらく人々もいた。荘内にある沼田市は,鎌倉期から知られる市場であり,地方の商業集落としては他にあまり例をみないほどの大きさであった。陸・海交通路の要衝であり,小早川氏にとってその経済的拠点として重要な機能を果たした。
執筆者:外園 豊基
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
安芸(あき)国沼田郡の沼田川流域に広がった荘園(しょうえん)。現在の広島県三原市、竹原市にまたがる広範囲な地域を占め、沼田本荘と新荘とからなる。平安末期には蓮華王院(れんげおういん)領で、下司(げし)は当地の開発領主と考えられる沼田氏であったが、平氏とともに滅亡した。平家没官(もっかん)領となった当荘には、土肥実平(どいさねひら)とその子遠平(とおひら)が地頭(じとう)として入ってくる。以後その子孫小早川(こばやかわ)氏が地頭職(しき)を相伝し、荘内本郷の高山城に本拠を置いて荘支配を行った。鎌倉時代の検注目録によると、本荘の現作田(げんさくでん)は250町余、新荘方は210町余である。当荘は交通の要衝にあり、荘内安直(あじか)郷には沼田本市(いち)、また小坂(おさか)郷には新市があり、大規模な市場集落を成立させていた。
[酒井紀美]
『石井進著『日本の歴史12 中世武士団』(1974・小学館)』
安芸国沼田郡にあった荘園。荘域は広島県三原市付近。沼田氏によって開発されたとみられ,平安末期に蓮華王院に寄進された。沼田氏は平家とともに滅亡し,土肥実平(どひさねひら)が地頭に任じられ,その子孫の小早川氏が地頭職を継いだ。田数は鎌倉中期で460町。同氏は高山(たかやま)城を本拠とし,荘内諸郷に庶子家を一分地頭として配して繁栄。荘内には沼田の市があった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…室町初期には,奈良では,南市,北市,高天市が毎日交替に開かれ,南市には30余の市座があった。1433年(永享5),安芸国沼田(ぬた)荘の安直(あじか)郷の市は,在家300宇,小坂郷新市(塩入市庭)は在家150宇を数えるほどの繁栄ぶりであった。これらに立売商人を入れると相当の規模をもつ。…
…山地が多いが,南東流する沼田(ぬた)川に沿って肥沃な沖積平野がひらけ,南東部で梨和川,尾原川などが合流する。古代から中世にかけて沼田荘の中心地で,沼田本郷とよばれた。沼田荘地頭小早川氏は沼田川を挟んで高山城,新高山(にいたかやま)城を築き,居城とした。…
※「沼田荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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