藤原京跡(読み)ふじわらきようあと

日本歴史地名大系 「藤原京跡」の解説

藤原京跡
ふじわらきようあと

持統天皇八年一二月から文武天皇を経て、元明天皇和銅三年(七一〇)三月の平城遷都までの都城で、日本最初の条坊制を残している。藤原の地は飛鳥の西北方、大和三山の中央部、飛鳥川流域の平坦地を占めている。東は天香久あめのかぐ山の頂を通るなかツ道、西は畝傍うねび山の東麓を走るしもツ道の東、南は桜井から飛鳥に至る旧山田やまだ道の西延長線、北は耳成みみなし山の南、すなわち旧横大路よこおおじを限る地が京域と推定されている。東西約二・一キロ、南北約三・一キロ。

京内は中央北寄りに宮を造営し、周囲に条坊制による方格地割をもつ街区が造られていた。南北一二条、東西八坊(東西各四坊)に分れ、これら条坊の大路によって区画された坊はさらに四坪に分れており、一坪は一辺一〇八メートルの正方形であったらしい。発掘調査の結果では、大路・小路はいずれも幅一―二メートルの側溝を伴っており、路面幅は両側溝の中心からの距離で、大路は一八メートル、小路は七・五メートルとなっている。また京の中軸を南北に走る朱雀すざく大路は路面幅二四メートルと大きく、宮の南を東西に走る六条ろくじよう大路も二一メートルと路面幅が大きい。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「藤原京跡」の解説

ふじわらきょうせき【藤原京跡】


奈良県橿原市にある藤原京の中心街路跡など。指定名称は「藤原京跡 朱雀大路跡(すざくおおじあと) 左京七条一・二坊跡(さきょうしちじょういちにぼうあと) 右京七条一坊跡(うきょうしちじょういちぼうあと)」。藤原京は694年(持統天皇8)から710年(和銅3)に平城京に遷るまでの16年間の都であり、大極殿・朝堂院の跡を中心とする地域が藤原宮跡として、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定されている。藤原宮の南正門、すなわち平城宮、平安宮朱雀門にあたる門については、その後の再確認調査などの結果、戦前に発掘された「朝集殿院南門」が藤原宮朱雀門に比定しうるまでにいたったが、この推定朱雀門から南に延びる朱雀大路については、1976年(昭和51)の発掘調査によって、幅4m、深さ0.4mの南北大溝2条が検出され、溝中から藤原宮跡と同時期の遺物が出土することもあって、幅21mの大路だったことが判明。幅21mという規模は、平城京の朱雀大路にくらべればはるかに狭いが、藤原京朱雀大路の存在が確認されたことは、藤原京が中国の都城制に倣って計画されたことを考古学的に立証する有力な資料となり、藤原京の全体像を解明するうえで重要であることから、1978年(昭和53)に国の史跡に指定された。その後の発掘調査で京跡の細部が解明され、藤原宮の南西に位置し、貴族の邸宅官衙(かんが)が立地していた左京と右京の坊跡の一角が、2011年(平成23)に追加指定され、朱雀大路跡とあわせて名称変更された。近畿日本鉄道橿原線畝傍御陵前駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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