精選版 日本国語大辞典 「藤原伊周」の意味・読み・例文・類語
ふじわら‐の‐これちか【藤原伊周】
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平安中期の公卿(くぎょう)。道隆(みちたか)の二男。母は高階成忠(たかしなのなりただ)の女(むすめ)貴子。994年(正暦5)内大臣、翌995年(長徳1)内覧宣旨を受けた。道隆の死後、次の政権の地位をめぐり叔父道兼(みちかね)・道長と争うこととなり、伊周としては内覧宣旨は父道隆の病の間という条件付きであったことも問題とせず、自分に内覧または摂政(せっしょう)が下るものと考えていたようである。だが、道兼に関白は下り、その後、7日関白で道兼が死ぬと道長に内覧宣旨が下り、伊周の嘆きは大きかった。翌年、為光(ためみつ)の女をめぐっての恋愛事件によって花山(かざん)法皇を誤解し、伊周・隆家の従者が花山法皇におどしの矢を射たことをはじめとして、臣下の行うべからざる大元帥法(だいげんのほう)を修しているということ、および東三条院詮子(せんし)を呪詛(じゅそ)しているとの噂(うわさ)がたち、996年(長徳2)大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷されたが、翌年召還された。1008年(寛弘5)大臣に準じて封1000戸を与えられ、儀同三司とよばれた。『栄花物語』で、伊周の召還の原因を一条(いちじょう)天皇の第一皇子敦康(あつやす)親王(母は伊周の妹定子(ていし))の誕生のためとしているのは誤りである。伊周は敦康親王の立太子に望みをかけていたが、道長の女中宮彰子(しょうし)の子敦成(あつひら)親王の出生によって希望は絶たれ、道長の勢力の拡大によって中関白家は没落した。政治家としてはさえない人物であったが、文才があり、『大鏡』に「御ざえ日本には余らせたまへる」とみえる。寛弘(かんこう)7年正月29日薨(こう)じた。
[山中 裕]
(朧谷寿)
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974~1010.1.28
儀同三司(ぎどうさんし)とも。平安中期の貴族。父は関白道隆,妹は一条天皇の皇后定子。985年(寛和元)従五位下。990年(正暦元)父道隆が実権を握ると,若くして参議・権中納言・権大納言・正三位と累進し,994年には内大臣となり,中関白(なかのかんぱく)家の盛期を迎える。父の病で内覧宣旨をうけるが,没後叔父道長との権力争いに敗れ,996年(長徳2)には大宰権帥に左遷。翌年京に戻りのち准大臣・正二位となるが,発言力はなかった。
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