名は「これまさ」とも訓(よ)む。平安中期の政治家、歌人。藤原氏北家(ほっけ)の右大臣師輔(もろすけ)の一男で、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)、中宮安子らの兄。母は贈正一位藤原盛子。名門の一男に生まれ、970年(天禄1)右大臣・摂政(せっしょう)に進み、翌年正二位太政(だいじょう)大臣に任じられたが、悪瘡(あくそう)のため972年11月に薨(こう)じ、謙徳公と諡(おくりな)された。また一条大路に面した邸宅に居住していたため、一条摂政とよばれた。その風貌(ふうぼう)と才知はぬきんでており、性格ははでであった。歌人としても著名で、『一条摂政御集』があり、また『後撰集(ごせんしゅう)』以下の勅撰集に37首とられている。女(むすめ)の懐子(ちかこ)は冷泉女御(れいぜいにょうご)で、花山(かざん)帝の母后となった。
[角田文衛]
『『大日本史料 第一編之14』(1984・東京大学出版会)』▽『平安文学輪読会編『一条摂政御集注釈』(1967・塙書房)』
(朧谷寿)
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平安中期の公卿。右大臣師輔の長男。母は武蔵守藤原経邦の女盛子。18歳で叙爵,のち蔵人頭を経て960年(天徳4)参議,967年(康保4)正月権中納言となり,その後妹安子所生の冷泉・円融天皇時代にかけ,同年12月には権大納言,970年(天禄1)摂政右大臣,翌年摂政太政大臣となったが,その翌年没。諡(おくりな)は謙徳公。一条摂政という。和歌にすぐれ家集も残している。妻恵子女王(醍醐皇孫)が生んだ女懐子は冷泉女御,花山天皇母。
執筆者:黒板 伸夫
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924~972.11.1
「これただ」とも。一条摂政とも。平安中期の公卿。諡は謙徳公。師輔の長男。行成の祖父。941年(天慶4)従五位下。960年(天徳4)参議。970年(天禄元)右大臣に至る。同年実頼の後をうけて円融天皇の摂政となり,翌年正二位・太政大臣に昇る。没後に贈正一位,三河国に封じられる。和歌にすぐれ「一条摂政御集」がある。女の懐子が冷泉天皇女御(にょうご)となり花山天皇を生んだ。
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…平安時代の歌人摂政太政大臣藤原伊尹(これただ)の家集。《大鏡》に〈いみじき御集つくり`豊蔭’と名のらせ給へり〉と見えるが,大蔵史生倉橋豊蔭に仮託して,伊尹の恋歌を歌物語風にまとめた第1部41首,〈同じ翁の歌〉として収める種々の贈答歌からなる第2部151首,補遺2首から構成される。…
…951年(天暦5)10月,村上天皇の勅命によって,《万葉集》の訓釈と第2番目の勅撰集《後撰集》の撰という二つの事業が課せられ,内裏の後宮にある昭陽舎(梨壺)に初めて撰和歌所が置かれた。別当(長官)には左近少将藤原伊尹(これただ)が任ぜられ,讃岐大掾大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ),河内掾清原元輔,学生源順(みなもとのしたごう),近江少掾紀時文,御書所預坂上望城(さかのうえのもちき)の5人が事にあたった。能宣,元輔は当代歌人の代表者,順は和漢にわたる随一の学識者,時文は能筆の者,望城は御書所の図書責任者であったから,それぞれの能力や立場に応じて撰集と訓釈という両面の仕事が分担されたと想像される。…
※「藤原伊尹」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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