平安前期に起こった,天皇と権臣との政治抗争。北家藤原氏の良房が文徳・清和朝に外戚として政権をとった後を継いだ養子基経は,その妹高子の生んだ幼帝陽成天皇の摂政となっていた。しかししだいに対立を深め,ついに884年(元慶8)天皇を廃し,故仁明天皇の皇子時康親王を擁立し,この55歳の老帝光孝天皇のもとで実権をにぎった。その後,887年(仁和3)基経の妹・尚侍淑子と文章博士橘広相(ひろみ)らの奔走によって,すでに臣籍に降っていた皇子源定省(さだみ)が即位すると,親政の意欲をもつ新帝宇多天皇との間に対立が生じた。そのきっかけは,天皇が先代と同様に太政大臣基経に政務を一任する旨の詔書を発した中に,〈よろしく阿衡の任をもって,卿の任となすべし〉との辞があったのに対して,基経が家司藤原佐世の言にしたがい,〈阿衡〉とは実権のない礼遇を意味すると非難し,政務を拒否したことにある。天皇と腹心広相は,当時の学者間の抗争も背景として基経を支持した公卿・官人・学者の中で孤立すること半年を超え,やむをえず詔書を改訂したが,さらに基経は詔書を執筆した広相の断罪をはかった。しかし,基経の女温子を女御とすることによって妥協が成立し,以後891年(寛平3)の死に至るまで基経はいわゆる〈関白〉の権力を行使した。宇多天皇はこの屈辱をふかく遺憾とし,事件の際基経に諫言した菅原道真を腹心として登用し,基経の子時平と並んで政務に当たらせ,藤原氏の勢力抑制をはかった。これら事件の経緯は,《政事要略》によって知られる。
執筆者:目崎 徳衛
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藤原氏による専権体制確立過程における一事件。887年(仁和3)宇多(うだ)天皇が即位すると、その擁立に功績のあった太政(だいじょう)大臣藤原基経(もとつね)に関白の任を与えることになった。その際、天皇の近臣である文章博士(もんじょうはかせ)橘広相(たちばなのひろみ)がつくった詔(みことのり)に、阿衡(殷(いん)の宰相の職名)をもってその任となせとの句があったのを、基経の家司(けいし)で学者の藤原佐世(すけよ)らが阿衡には典職(具体的な職務)なしとの主張を行い、それにより基経が政務をみることをやめたため、公務の渋滞をきたした。広相は五条の愁文を奏して反駁(はんばく)したが、左大臣源融(とおる)が徴した博士らの見解は佐世の主張に同調的であり、結局詔書を改めて施行することによって落着した。天皇は日記のなかに「ついに志を得ず、枉(ま)げて大臣の請に随う、濁世のことかくの如(ごと)し、長大息をなすべきなり」との感慨を記している。事件の発端は学者間の反目にあり、摂関家の威を借りた佐世が広相の追い落としを図ったことにあるが、学者間の争いに終わらず、宮廷内の主導権をめぐる天皇と基経の争いに発展し、多数派工作に成功した基経の前に天皇が屈したのであった。制度的にみるならば、基経は阿衡を避け関白に固執することで、父良房(よしふさ)以来のあいまいさを残していた摂行(せっこう)制度の克服に成功し、天皇が元服を終え自ら大権を行うことが可能になった段階においても、奏宣のことにはすべて関与しうるという関白の制を確立し、藤原氏が専権体制を築くにあたっての制度的よりどころたる宮宰(きゅうさい)制度を完成した。
[森田 悌]
『石尾芳久著『日本古代の天皇制と太政官制度』(1962・有斐閣)』▽『森田悌著『王朝政治』(1979・教育社)』
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…対策に及第した後文章博士,東宮学士,右大弁などを歴任し,天皇の侍読を務めた。宇多天皇の即位とともに藤原基経が関白となったが,広相の起草した勅答に〈阿衡(あこう)〉の文字があったため大騒動が起こり1年間政治が空白となった(阿衡事件)。それを苦にしてまもなく死し,中納言従三位を贈られる。…
※「阿衡事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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