天智朝から奈良初期の貴族。もと物部麻呂といい物部氏の一族でのちに石上氏を名のる。麻呂は物部目の後裔。宇麻呂の子。壬申の乱に際して近江朝廷側にくみしたが,乱後,遣新羅大使に任ぜられ,帰朝して小錦下。686年(朱鳥1)天武天皇の殯(もがり)にあたって法官の事を誄(しのびごと)した。以後,奈良時代まで筑紫惣領,中納言,大納言,大宰帥,右大臣,左大臣を歴任した。その間,多治比真人,阿倍御主人(みうし)の弔賻使となる。690年(持統4)軍事氏族の伝統をつぎ朝賀に大盾を供献し,また692年持統天皇の伊勢行幸に従っている。歴代天皇から厚い信任を得ていたらしく,その死に際して,廃朝のうえ,従一位を追贈され,太政官以下の誄を述べられ,また百姓も追慕し痛惜したという。奈良時代の文人として,淡海三船(おうみのみふね)と並称された石上宅嗣はその孫。
執筆者:梅村 喬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
飛鳥(あすか)末期・奈良初期の公卿(くぎょう)。宇麻乃(うまの)(宇麻呂(うまろ))の子、乙麻呂(おとまろ)の父。旧氏姓は物部連(もののべのむらじ)。壬申の乱(じんしんのらん)では大友(おおとも)皇子側にあったが、大友の最期に付き添った忠節を賞されてか天武(てんむ)朝でも用いられた。684年(天武天皇13)石上朝臣(あそん)に改氏姓、686年(朱鳥元)には天武天皇の殯宮(もがりのみや)で法官(のりのつかさ)の事を誄(しのびごと)した。690年(持統天皇4)大盾(おおたて)を樹(た)て天皇の即位式に奉仕、696年には直広壱(じきこういち)(正四位下(しょうしいのげ)に相当)となり資人(しじん)50人を与えられた。その後、中納言(ちゅうなごん)、大納言、大宰帥(だざいのそち)を歴任し、704年(慶雲1)右大臣、708年(和銅1)正二位で左大臣となった。人望があつく、717年(養老1)に没すると従一位(じゅいちい)が贈られ、人民も追慕して痛惜しない者はなかったという。
[山本幸男]
『野村忠夫著『奈良朝の政治と藤原氏』(1995・吉川弘文館)』
(清田善樹)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加