万里小路(までのこうじ)藤房ともいう。鎌倉末期の公卿(くぎょう)。宣房(のぶふさ)の子。父とともに後醍醐(ごだいご)天皇に近侍し、天皇の討幕計画に参加した。1331年(元弘1)中納言(ちゅうなごん)になり、この年元弘(げんこう)の変が起こると、天皇を奉じて笠置(かさぎ)に逃れたが、北条方に捕らえられ、翌年下総(しもうさ)国(『太平記』では常陸(ひたち)国)に流された。33年後醍醐天皇の建武(けんむ)政権成立により呼び帰され、恩賞方(おんしょうがた)筆頭となり、新政権のために働いたが、翌34年(建武1)行賞の不公平について天皇に諫言(かんげん)したがいれられず、京都北山の岩倉に隠れ、天皇の召にも応じなかった。その後、出家し、行方をくらました。
[飯倉晴武]
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