藤原藤房(読み)フジワラノフジフサ

デジタル大辞泉 「藤原藤房」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふじふさ〔ふぢはら‐ふぢふさ〕【藤原藤房】

[1295~?]南北朝時代後醍醐天皇側近宣房のぶふさの子。元弘の変天皇を奉じて笠置山に逃れたが、捕らえられて常陸ひたちへ配流。のち、建武政府の恩賞方筆頭となったが、行賞不公正などに失望して隠居万里小路までのこうじ藤房。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原藤房」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふじふさ【藤原藤房】

  1. 鎌倉末期、南朝廷臣。宣房の子。別名万里小路藤房。後醍醐天皇の側近。正二位中納言。元弘の乱の謀議が漏れ、笠置山にのがれたが捕えられ常陸に流された。建武政権成立後、恩賞方の筆頭となったが、行賞の不公正と政府内部の不和のため出家隠棲した。永仁三年(一二九五)生。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原藤房」の意味・わかりやすい解説

藤原藤房
ふじわらのふじふさ
(1295―1380?)

万里小路(までのこうじ)藤房ともいう。鎌倉末期の公卿(くぎょう)。宣房(のぶふさ)の子。父とともに後醍醐(ごだいご)天皇に近侍し、天皇の討幕計画に参加した。1331年(元弘1)中納言(ちゅうなごん)になり、この年元弘(げんこう)の変が起こると、天皇を奉じて笠置(かさぎ)に逃れたが、北条方に捕らえられ、翌年下総(しもうさ)国(『太平記』では常陸(ひたち)国)に流された。33年後醍醐天皇の建武(けんむ)政権成立により呼び帰され、恩賞方(おんしょうがた)筆頭となり、新政権のために働いたが、翌34年(建武1)行賞の不公平について天皇に諫言(かんげん)したがいれられず、京都北山の岩倉に隠れ、天皇の召にも応じなかった。その後、出家し、行方をくらました。

[飯倉晴武]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原藤房」の意味・わかりやすい解説

藤原藤房
ふじわらのふじふさ

[生]永仁3(1295).京都
[没]?
鎌倉時代末期~南北朝時代初期の廷臣。万里小路藤房ともいう。宣房の子。中納言,正二位。後醍醐天皇が東宮のときから側近にあり,即位後の討幕計画にも参画。元弘1=元徳3 (1331) 年の元弘の乱には天皇に従って笠置山に逃れたが,有王山で捕えられ,翌年常陸に流された。建武政権樹立とともに帰京し,洞院実世 (とういんさねよ) に次いで恩賞方筆頭となった。しかし公武の争いと行賞についての私曲が横行したので出仕をやめ,建武1 (34) 年天皇が政を顧みないのをいさめて岩倉で出家。その後の動静は明らかでない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原藤房」の解説

藤原藤房 ふじわらの-ふじふさ

万里小路藤房(までのこうじ-ふじふさ)

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