恩賞方(読み)オンショウカタ

デジタル大辞泉 「恩賞方」の意味・読み・例文・類語

おんしょう‐かた〔オンシヤウ‐〕【恩賞方】

建武中興政府の職名論功行賞を取り扱ったが、事務が遅延し、公平を欠いたために諸将の不満を買った。

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精選版 日本国語大辞典 「恩賞方」の意味・読み・例文・類語

おんしょう‐がたオンシャウ‥【恩賞方】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 建武中興政府の職名。諸国武士の軍忠を賞功するために、はじめ元弘三年(一三三三洞院実世らを上卿に設置されたが、事務遅延のために、さらに建武元年(一三三四)に全国を四区に分けて公武一七名を各々四人の長官の許に分掌させた。
  3. おんしょうぶぎょう(恩賞奉行)
    1. [初出の実例]「中条兵庫頭入道、飯尾美濃守参恩賞」(出典:花営三代記‐応安二年(1369)一〇月二七日)

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改訂新版 世界大百科事典 「恩賞方」の意味・わかりやすい解説

恩賞方 (おんしょうかた)

建武政府および室町幕府において恩賞事務を取り扱った役所。1333年(元弘3),建武政府の発足当初に洞院実世万里小路(までのこうじ)藤房,九条光経らを上卿とし,恩賞問題の審議機関として設置された。しかし,後醍醐天皇親裁による恩賞宛行(あておこない)と恩賞方の審議とは必ずしも連携せず,恩賞問題は混乱した。34年(建武1),全国を4地区に分け,吉田定房(東海・東山道),九条光経(北陸道),万里小路藤房畿内山陽・山陰道),四条隆資南海西海道)をそれぞれ頭人とする四番制を採用して機構を整備した。これら頭人は雑訴決断所の頭人あるいは寄人(よりうど)を兼任した。また結番した寄人も,例えば楠木正成名和長年など,多くが決断所の寄人を兼任している。しかし,決断所に登用されていた飯尾,二階堂氏など鎌倉幕府の事務官僚に系譜を引く武士は恩賞方からは排除された。恩賞を期待する武士たちの意を十分吸収しえなかったことは容易に推測される。

 室町幕府では1336年(延元1・建武3),幕府開設直後に執事高師直(こうのもろなお)を頭人とし,足利尊氏直轄の機関として設置された。単に恩賞を受ける者の選定や恩賞地の選定事務のみならず,恩賞地宛行後の旧主の異議申立て,あるいは実力による新恩者の排除に伴って起こる訴訟なども処理した。恩賞宛行は主権者の大権であり,72年(文中1・応安5)に〈御恩沙汰〉が将軍義満出席のもとに管領細川頼之および奉行人4人によって行われているが,恩賞方の審議が将軍臨席を原則とするものであることを示すものであろう。のちには将軍出席のもとに行われる〈御前沙汰〉に関与する奉行人すなわち御前沙汰衆を恩賞方衆と呼ぶようになった。これ以外の奉行衆御前未参衆と呼ぶ。1485年(文明17)には恩賞方衆が17名,御前未参衆が21名であった。恩賞方が奉行衆の奉行人たる資格に過ぎなくなり,すでに機関としての機能を失っていると考えざるをえない。
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百科事典マイペディア 「恩賞方」の意味・わかりやすい解説

恩賞方【おんしょうかた】

建武新政期および室町幕府において恩賞事務を取り扱った役所。建武政府発足当初の1334年設置され,洞院実世(とういんさねよ)らが上卿として審議した。しかし後醍醐天皇親裁による恩賞宛行とは連携せず,恩賞を望む武士たちの混乱を招き,翌年,全国を4地方に分けて4人の頭人による4番制を採用するが,効のないまま廃絶。室町幕府では1336年足利尊氏直轄の機関として設置,高師直(こうのもろなお)を頭人とした。後には将軍出席のもとに行われる御前沙汰に関与する奉行人(御前沙汰衆)を恩賞方衆と呼んだ。この呼称は御前未参衆に対する呼称で,実際に恩賞を扱う機関としての機能は失っていたとみられる。
→関連項目建武年間記

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「恩賞方」の意味・わかりやすい解説

恩賞方
おんしょうがた

建武(けんむ)政権、室町幕府の職名。論功行賞を取り扱い、恩賞の申請を受理し、恩賞業務を管轄し審議する機関。建武政権においては1333年(元弘3・正慶2)7月ごろ発足したが、翌年全国を4地方に分けて恩賞方を置き、強化しようとした。しかし恩賞を望む者が多かったり、足利尊氏(あしかがたかうじ)らの有力者が恩賞方に参加しなかったりしたので、十分な活動ができなかった。室町幕府の恩賞方は、1336年(延元1・建武3)幕府成立直後に設置された。恩賞宛行(あておこない)は将軍のもっとも固有な権限であったから、尊氏のときには執事(しつじ)高師直(こうのもろなお)が頭人に任ぜられた。恩賞方は将軍に密着した直属機関であったので恩賞方の審議は将軍の御前で行われる場合が多く、恩賞方の奉行人(ぶぎょうにん)は御前沙汰衆(ごぜんさたしゅう)でもあった。

[伊藤喜良]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「恩賞方」の意味・わかりやすい解説

恩賞方
おんしょうがた

建武新政権が武士の勲功を調査し,恩賞を与えるために設けた職名。元弘の乱後,武士の軍功調査事務が渋滞したため,建武1 (1334) 年鎌倉幕府の恩沢奉行にならって設置したもの。恩賞方四番の制は公卿以下 17名で構成され,1番は東海道および東山道地方で番頭吉田定房が,2番は北陸道地方で番頭九条光経が,3番は畿内,山陽道,山陰道地方で番頭万里小路藤房 (→藤原藤房 ) が,4番は南海道および西海道地方で番頭四条隆資が,それぞれ分担したが,実質的効果をあげることができずまもなく廃止された。その後足利尊氏が幕府創設後同じ目的で恩賞奉行を設置したが,この職も恩賞方という場合がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「恩賞方」の解説

恩賞方
おんしょうかた

建武政権・室町幕府に設けられた恩賞審査の組織。建武政権では,洞院実世(とういんさねよ)らを上卿(しょうけい)として,発足直後に設置された。実態は不明だが,決定権は後醍醐天皇にあり,しばしば審議結果が覆され上卿が交代したという。1334年(建武元)5月,4番制で各頭人が雑訴決断所の頭人を兼ねるかたちに整備された。室町幕府でも成立直後に設けられ,将軍足利尊氏の出席する給与決定の場と,恩賞地の選定にあたる場からなり,執事高師直(こうのもろなお)らが参加した。足利義詮(よしあきら)以後,実質的な活動は少なくなるが,評定にかわって整備される御前沙汰の基盤となる。室町後期,御前沙汰に参加する奉行人を恩賞方衆とよんだ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「恩賞方」の解説

恩賞方
おんしょうがた

建武新政府の職名
元弘の変(1331〜33)後,諸国の武士で恩賞を望む者が多数にのぼり,事務が渋滞したので,1334年全国を4地方に分け,それぞれに恩賞方を置き,吉田定房・九条光経 (みつつね) ・藤原藤房・四条隆資 (たかすけ) を各長官として論功行賞事務の進捗をはかった。しかし公正を欠き,まもなく廃絶。

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世界大百科事典(旧版)内の恩賞方の言及

【記録所】より


[後醍醐朝の記録所]
 こうして院政下では文殿,親政下では記録所と機能が分化移行するようになり,1321年(元亨1)後醍醐天皇が親政を開始するや,早速記録所を設置し,訴訟を裁断した。ついで33年(元弘3)鎌倉幕府が滅亡すると,天皇は恩賞方や雑訴決断所を新設し,従来量的にも記録所の職務に大きな部分を占めていた雑訴をこれに移し,記録所は訴訟のうちでも寺社・権門にかかわる大事のみを取り扱い,中央政府のなかに中心的な機関の地位を占めた。そして建武政府の倒壊後,北朝では院政が復活し,文殿が活動する一方,記録所の名称は近世初頭の内裏まで存続したが,その間実質的な機能を急速に失っていった。…

※「恩賞方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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