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元弘の変 ゲンコウノヘン

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デジタル大辞泉の解説

げんこう‐の‐へん【元弘の変】

元弘元年(1331)、後醍醐天皇が企てた鎌倉幕府討伐の計画。未然に露見し、天皇は笠置(かさぎ)寺有王山中に逃れたが、翌年捕らえられ、隠岐(おき)に流された。幕府滅亡の直接の動因となった。

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大辞林 第三版の解説

げんこうのへん【元弘の変】

1331年(元弘1)、後醍醐天皇によって起こされた政変。鎌倉幕府の討幕を企てて露顕し、天皇は捕らえられ隠岐に流されたが、天皇の隠岐脱出に呼応して諸将が蜂起、幕府は倒れ建武の中興をみるに至った。元弘の乱。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

元弘の変
げんこうのへん

1331年(元弘1)後醍醐(ごだいご)天皇が鎌倉幕府の倒滅を策して引き起こした内乱。
 1324年(正中1)天皇の第1回の倒幕計画失敗(正中(しょうちゅう)の変)後も幕府の政治は安定せず、陸奥(むつ)国安東(あんどう)氏の内紛は内乱にまで拡大し、京都周辺の地方では、悪党が盛行し御家人(ごけにん)のなかに通ずる者もあって、鎮定はなかなか困難であった。また得宗(とくそう)の北条高時(たかとき)は政務を顧みず、内管領(うちかんれい)長崎高資(たかすけ)が専権を振るい御家人の不信を買っていた。このような状況をみて天皇はふたたび日野俊基(ひのとしもと)らと幕府討滅を謀るに至った。26年(嘉暦1)皇太子邦良親王の急死により、天皇は自分の皇子尊良、世良親王のうちいずれかを皇太子にと望んだが、幕府は両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則から持明院(じみょういん)統の量仁(ときひと)親王を推し皇太子とした。ここに自己の政治理想の継承を皇統の相続によって期待した天皇の望みは絶たれ、これ以後いよいよ倒幕計画を具体化させるに至ったのであろう。天皇は正中の変の失敗にかんがみ、武士よりもおもに南都北嶺(なんとほくれい)の武力を頼み、その工作を進めた。27年には天台座主(てんだいざす)に護良(もりよし)親王(尊雲(そんうん)法親王)を、29年(元徳1)には宗良(むねなが)親王(尊澄(そんちょう)法親王)を任命、翌30年には日吉(ひえ)神社、延暦(えんりゃく)寺に行幸、さらに同年、春日(かすが)神社、東大寺、興福寺にも行幸、南都の衆徒勢力の糾合に努めた。また中宮(ちゅうぐう)の安産祈祷(きとう)と称して、かねてより信任のあった円観(えんかん)、文観(もんかん)らの僧に命じて関東調伏(ちょうぶく)の祈祷を勤めさせた。
 しだいに情勢の進展するなかで1331年(元弘1)4月、後醍醐天皇の教導役であった吉田定房(さだふさ)は、突如、倒幕の陰謀計画のあることを幕府に密告した。かねがね急進派の動きに不安を感じていた定房が、事態の進展を憂慮し被害を最小限にとどめようとした苦肉の策であろう。幕府はただちに六波羅探題(ろくはらたんだい)に命じて追及を開始。俊基、文観、円観らを逮捕、鎌倉に護送して厳しく糾問。その自供を得てさらに追及の手を伸ばすことになる。事前にその動きを察知した天皇は8月、先手を打って皇居を脱出、南都に赴いた。同時に計略を用いて花山院師賢(かざんいんもろかた)を身代りに叡山(えいざん)に送り、六波羅の軍兵の眼(め)を欺くことに成功した。しかし東大寺側の受入れ態勢が十分でなく、天皇は東南院から山城和束金胎(やましろわつかこんたい)寺(京都府相楽(そうらく)郡和束(わづか)町)に移り、さらに要害の地笠置(かさぎ)寺(同相楽郡笠置町)に入り防御を固め、近隣の武士の応援を求めた。やがて六波羅の軍も笠置に向かい、9月初め幕府も大仏貞直(おさらぎさだなお)、金沢貞冬(かねさわさだふゆ)、足利高氏(あしかがたかうじ)らを将とする大軍を派遣、笠置城を包囲した。また高時の使者長崎高貞(たかさだ)、将軍の使者安達高景(あだちたかかげ)、二階堂道蘊(にかいどうどううん)らも入京。出奔した天皇にかわり量仁親王を天皇(光厳(こうごん))に擁立した。笠置城では足助重成(あすけしげなり)らが奮戦し、幕府軍を悩ませたが、1か月も支ええず陥落。天皇は藤原藤房(ふじふさ)らと城を脱出したが、山城有王(ありおう)山中を彷徨(ほうこう)中、同国武士深津某、松井某らに捕らえられた。天皇は六波羅に送られ、翌32年3月承久(じょうきゅう)の先例に倣い隠岐(おき)島に配流となった。また佐渡に幽閉中の日野資朝(すけとも)や鎌倉に送られた俊基らは処刑され、親王や公卿(くぎょう)で配流となった者は多数に上った。しかし、笠置と呼応して河内(かわち)赤坂(あかさか)城(大阪府南河内郡)で挙兵し、陥落後行方をくらましていた楠木正成(くすのきまさしげ)や護良親王らは同年後半からふたたび挙兵して執拗な抵抗を続け、やがて諸国の反幕府勢力の決起を誘発して、1333年(元弘3)5月、鎌倉幕府滅亡に至るのである。[五味克夫]

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