コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

藤原隆家 ふじわらのたかいえ

8件 の用語解説(藤原隆家の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原隆家
ふじわらのたかいえ

[生]天元2(979)
[没]寛徳1(1044).1.1.
平安時代の廷臣。道隆の4男。母は高階成忠の娘貴子。幼名は阿古。永延3 (989) 年従五位下,正暦5 (994) 年従三位,長徳1 (995) 年中納言。翌2年兄藤原伊周 (これちか) の事件に連座し出雲権守に左遷。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐たかいえ〔ふぢはら‐たかいへ〕【藤原隆家】

[979~1044]平安中期の公卿。道隆の四男。叔父道長との政権争いに敗れて失脚、のちに許され、大宰権帥(だざいのごんのそち)に赴任。寛仁3年(1019)外敵の刀伊(とい)を撃退して武勇の名をあげた。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

藤原隆家【ふじわらのたかいえ】

平安中期の高官。道隆(みちたか)の子。中納言,兵部卿となり,妹定子(ていし)の子敦康(あつやす)親王の立太子を望んだが達せられず大宰権帥(だざいのごんのそち)として赴任。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原隆家 ふじわらの-たかいえ

979-1044 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天元2年生まれ。藤原道隆の子。母は高階貴子。長徳2年(996)中納言のとき,花山上皇に矢を射かけた事件を理由に,兄伊周(これちか)とともに左遷された。のち中納言に復帰。大宰権帥(だざいのごんのそち)をかねて赴任し,寛仁(かんにん)3年(1019)刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)を撃退した。正二位。長久5年1月1日死去。66歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

藤原隆家

没年:寛徳1.1.1(1044.2.2)
生年:天元2(979)
平安中期の公卿。関白道隆と高階貴子の子。正暦5(994)年,父の威勢により参議となり,翌年権中納言さらに中納言と異例の昇進をする。しかし父の死により,藤原道長と政権の座を争って敗れた兄伊周と共に長徳2(996)年,花山法皇を射嚇したなどの罪で出雲権守に左遷された。翌年許され帰京し,数年後に本位に復したがふるわなかった。眼を患い九州に宋(中国)の医師が来航していると聞き下向,大宰府(太宰府市)の長官を務め善政を行った。寛仁3(1019)年,刀伊の来襲を撃退して功をあげた。剛毅な性格であったという。

(朧谷寿)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのたかいえ【藤原隆家】

979‐1044(天元2‐寛徳1)
平安中期の廷臣。父は関白道隆,母は高階貴子。一条天皇皇后定子の弟。989年(永祚1)叙爵以後急速に昇進,三位中将を経て若年で権中納言となったが,996年(長徳2)花山法皇への暴力事件を起こし,兄伊周(これちか)と同時に配流。998年赦免帰京,1002年(長保4)権中納言に復任。14年(長和3)大宰権帥を兼ね,任期中の19年(寛仁3)には刀伊(とい)の入寇を撃退した。23年(治安3)中納言を辞任,以後大蔵卿や再度の大宰帥等に任ぜられた。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

ふじわらのたかいえ【藤原隆家】

979~1044) 平安中期の廷臣。道隆の子。中納言。叔父道長と対立し不遇であったが、大宰権帥だざいのごんのそつとなって赴任中、1019年刀伊の入寇を撃退し、武名をあげた。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原隆家
ふじわらのたかいえ
(979―1044)

平安中期の公卿(くぎょう)。藤原道隆(みちたか)の4子。母は高階成忠(たかしなのなりただ)の女(むすめ)貴子、幼名を阿古という。996年(長徳2)権中納言(ごんちゅうなごん)のとき、兄内大臣伊周(これちか)とともに、花山(かざん)法皇をおどし射った罪によって出雲権守(いずもごんのかみ)に配流され、病のため但馬(たじま)にとどまった。997年、東三条院詮子(せんし)の病気によって伊周とともに召還された(『栄花物語』に誤りあり)。帰京し兵部卿(きょう)となり、本官に復し、のち従三位(じゅさんみ)に進んだ。1002年(長保4)権中納言に再任され、04年(寛弘1)正三位、07年従二位、09年中納言となった。
 三条(さんじょう)天皇の代となって眼病にかかり、宋(そう)の名医に治療を受けるという名目で1014年(長和3)大宰権帥(だざいのごんのそち)になり、翌年赴任。正二位となる。19年(寛仁3)刀伊(とい)の賊の来襲を撃退したため武勇の名をあげた。この年、任を辞して帰京、朝廷からは報いられず、23年(治安3)中納言を辞任。37年(長暦1)ふたたび大宰権帥に任ぜられ、42年(長久3)辞任した。長久(ちょうきゅう)5年正月1日薨(こう)じた。[山中 裕]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の藤原隆家の言及

【刀伊の入寇】より

…彼らは50余隻の船団でまず対馬・壱岐を襲い,さらに筑前国怡土郡等に侵入し,各地で千数百人の人々を捕らえ,老人や子どもを含む四百数十人を殺し,牛馬や犬を殺して食し,穀米を略奪し,民家45宇を焼く等の惨害を与えた。現地最高責任者の中納言兼大宰権帥藤原隆家は,中央政府に急報するとともに,軍を整え防戦を命じた。大宰府軍は勇戦これを撃退し,刀伊は最後に肥前国松浦郡を襲ったが,現地の武力に撃退され退去した。…

※「藤原隆家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

藤原隆家の関連キーワード四條公任高階氏藤原伊周藤原定子儀同三司の母高内侍高階貴子高階成忠高階信順藤原原子

今日のキーワード

トランスアジア航空

台湾・台北市に本拠を置く航空会社。中国語名は復興航空。1951年、台湾初の民間航空会社として設立。83年に台湾の国産実業グループに経営移管され、組織改編を実施した。92年に国際チャーター便の運航を始め...

続きを読む

コトバンク for iPhone