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藤原隆家 ふじわらのたかいえ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原隆家
ふじわらのたかいえ

[生]天元2(979)
[没]寛徳1(1044).1.1.
平安時代の廷臣。道隆の4男。母は高階成忠の娘貴子。幼名は阿古。永延3 (989) 年従五位下,正暦5 (994) 年従三位,長徳1 (995) 年中納言。翌2年兄藤原伊周 (これちか) の事件に連座し出雲権守に左遷。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐たかいえ〔ふぢはら‐たかいへ〕【藤原隆家】

[979~1044]平安中期の公卿。道隆の四男。叔父道長との政権争いに敗れて失脚、のちに許され、大宰権帥(だざいのごんのそち)に赴任。寛仁3年(1019)外敵の刀伊(とい)を撃退して武勇の名をあげた。

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百科事典マイペディアの解説

藤原隆家【ふじわらのたかいえ】

平安中期の高官。道隆(みちたか)の子。中納言,兵部卿となり,妹定子(ていし)の子敦康(あつやす)親王の立太子を望んだが達せられず大宰権帥(だざいのごんのそち)として赴任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原隆家 ふじわらの-たかいえ

979-1044 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
天元2年生まれ。藤原道隆の子。母は高階貴子。長徳2年(996)中納言のとき,花山上皇に矢を射かけた事件を理由に,兄伊周(これちか)とともに左遷された。のち中納言に復帰。大宰権帥(だざいのごんのそち)をかねて赴任し,寛仁(かんにん)3年(1019)刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)を撃退した。正二位。長久5年1月1日死去。66歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原隆家

没年:寛徳1.1.1(1044.2.2)
生年:天元2(979)
平安中期の公卿。関白道隆と高階貴子の子。正暦5(994)年,父の威勢により参議となり,翌年権中納言さらに中納言と異例の昇進をする。しかし父の死により,藤原道長と政権の座を争って敗れた兄伊周と共に長徳2(996)年,花山法皇を射嚇したなどの罪で出雲権守に左遷された。翌年許され帰京し,数年後に本位に復したがふるわなかった。眼を患い九州に宋(中国)の医師が来航していると聞き下向,大宰府(太宰府市)の長官を務め善政を行った。寛仁3(1019)年,刀伊の来襲を撃退して功をあげた。剛毅な性格であったという。

(朧谷寿)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのたかいえ【藤原隆家】

979‐1044(天元2‐寛徳1)
平安中期の廷臣。父は関白道隆,母は高階貴子。一条天皇皇后定子の弟。989年(永祚1)叙爵以後急速に昇進,三位中将を経て若年で権中納言となったが,996年(長徳2)花山法皇への暴力事件を起こし,兄伊周(これちか)と同時に配流。998年赦免帰京,1002年(長保4)権中納言に復任。14年(長和3)大宰権帥を兼ね,任期中の19年(寛仁3)には刀伊(とい)の入寇を撃退した。23年(治安3)中納言を辞任,以後大蔵卿や再度の大宰帥等に任ぜられた。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのたかいえ【藤原隆家】

979~1044) 平安中期の廷臣。道隆の子。中納言。叔父道長と対立し不遇であったが、大宰権帥だざいのごんのそつとなって赴任中、1019年刀伊の入寇を撃退し、武名をあげた。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原隆家
ふじわらのたかいえ
(979―1044)

平安中期の公卿(くぎょう)。藤原道隆(みちたか)の4子。母は高階成忠(たかしなのなりただ)の女(むすめ)貴子、幼名を阿古という。996年(長徳2)権中納言(ごんちゅうなごん)のとき、兄内大臣伊周(これちか)とともに、花山(かざん)法皇をおどし射った罪によって出雲権守(いずもごんのかみ)に配流され、病のため但馬(たじま)にとどまった。997年、東三条院詮子(せんし)の病気によって伊周とともに召還された(『栄花物語』に誤りあり)。帰京し兵部卿(きょう)となり、本官に復し、のち従三位(じゅさんみ)に進んだ。1002年(長保4)権中納言に再任され、04年(寛弘1)正三位、07年従二位、09年中納言となった。
 三条(さんじょう)天皇の代となって眼病にかかり、宋(そう)の名医に治療を受けるという名目で1014年(長和3)大宰権帥(だざいのごんのそち)になり、翌年赴任。正二位となる。19年(寛仁3)刀伊(とい)の賊の来襲を撃退したため武勇の名をあげた。この年、任を辞して帰京、朝廷からは報いられず、23年(治安3)中納言を辞任。37年(長暦1)ふたたび大宰権帥に任ぜられ、42年(長久3)辞任した。長久(ちょうきゅう)5年正月1日薨(こう)じた。[山中 裕]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の藤原隆家の言及

【刀伊の入寇】より

…彼らは50余隻の船団でまず対馬・壱岐を襲い,さらに筑前国怡土郡等に侵入し,各地で千数百人の人々を捕らえ,老人や子どもを含む四百数十人を殺し,牛馬や犬を殺して食し,穀米を略奪し,民家45宇を焼く等の惨害を与えた。現地最高責任者の中納言兼大宰権帥藤原隆家は,中央政府に急報するとともに,軍を整え防戦を命じた。大宰府軍は勇戦これを撃退し,刀伊は最後に肥前国松浦郡を襲ったが,現地の武力に撃退され退去した。…

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