藤沢城跡(読み)ふじさわじようあと

日本歴史地名大系 「藤沢城跡」の解説

藤沢城跡
ふじさわじようあと

[現在地名]藤沢町藤沢 西風

藤沢の中心部、町場の北西の標高二一八・九メートルの通称たて山にある。頂上には物見台跡と推定される天満宮境内と、館山稲荷社のある本丸跡が東西に並び、二の丸・三の丸はその下方に鉤形に配されている。周囲の斜面は階段状に造成され、東側中腹には近世の知行主中村(新田)氏・奥山氏の居館跡がある。やなぎヶ館・亀井かめい(藤沢本郷安永風土記)かめヶ城・こう館ともよばれたという。築城の時期は不明。「仙台領古城書上」には東西一〇〇間・南北六〇間、二の丸は東西九〇間・南北四〇間とあり、現東磐井郡下では大原おおはら(現大東町)山吹やまぶき城と並ぶ大規模な城である。城主は岩淵近江。


藤沢城跡
ふじさわじようあと

[現在地名]新治村藤沢

筑波鉄道常陸藤沢駅に近い北の台地上にある。空堀・土塁が残り、中城ちゆうじよう曲輪くるわ物見台ものみだいなどの地名が残っている。面積約九千九〇〇平方メートル。南北朝時代、小田おだ(現筑波郡筑波町)支城として築かれたという。「新編常陸国誌」に「其城址今ニ在シテ、ちゆう じよう ノ地ニアリ」とあり、同書補に「新治郡藤沢村中城ニアリ、高丘ニシテ、大約面積三千坪、高二丈許、西ヨリ東ニ亘リ、水田之ヲ繞ル、間隍塁ノ跡ヲ存ス、天正六年戊寅、小田氏治太田三楽ノ為ニ迫ラレ、小田城ヲ出テ、此ニ拠ル、後チ小田氏コレヲ復シ、帰住ス、十三年乙酉、再ビ本城ヲ修メテ之ニ居ル、十八年庚寅、豊臣秀吉小田城ヲ陥ル、氏治逃レテ下妻ニ走リ、本城モ亦廃ストイヘリ」とある。


藤沢城跡
ふじさわじようあと

[現在地名]高遠町大字藤沢御堂垣外

村の西、藤沢川を隔てて南に延びた低い尾根続きの先端の小山に位置する。尾根には空堀が二ヵ所、頂上には開拓された平地があり、南北に土塁が残る。別名を蛇山じややまという。城山じようやまがなまったものか。

山城を中心とした一帯は、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)一一月八日の条にみえる藤沢余一盛景の本拠といわれているがつまびらかでない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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