日本古代の律令制のもとで,朝廷や京の警衛にあたった兵士。その名称は唐制に由来する。公民から徴発され,諸国の軍団に勤務する兵士のうちから交替で都に送られ,五衛府のうち衛門・左右衛士の3府に配属された。定数はときにより増減があり,805年(延暦24)の時点では衛門府400人,左右衛士府各600人,計1600人が存在していた。衛士の任務は宮城内の中門(宮門)・諸所の警衛,京中の夜間の巡検,天子行幸のおりの警固などであり,課役が免除され,帰国後1年は軍団勤務が免除されるなどの恩典があったが,任務の重要さゆえに監督もきびしく,酷使された。722年(養老6)には勤務年限を3年とし,養老令では1年としている。衛士の逃亡や弱体化が著しくなるにつれて,政府は衛府の武力の主体を地方豪族・下級官人層出身の舎人(とねり)に移すようになり,9世紀以降,衛士は宮廷の雑役に駆使される傾向が強まり,武力としての役割を失った。
執筆者:笹山 晴生
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奈良時代の兵士。諸国の軍団兵士の一部が1年ごとに上京し衛士府、衛門府に配備された。農民から兵士を徴発し天皇、帝都を衛守させるという考え方は、これまでになく、律令(りつりょう)軍制の特質の一つである。この結果、制度的には、天皇親衛軍の中核は、これまでのトネリ層から班田農民となった。衛士数は約2000、これに付随する火頭(かとう)(衛士の炊事役)1000。衛士のうち2割程度が衛門府に、残りの1600が衛士府に配備された。衛士の武器は、基本は烏作横刀(うづくりよこたち)と弓箭(ゆみや)。騎兵、弓箭装備の歩兵、槍(やり)装備の歩兵の3種があった。前二者はおもに宮城守衛にあたり、宮内、京中にあって、衛門、所部衛守、京内要地守衛、京路巡行、行幸供奉(ぐぶ)、要人警護の任についた。
[野田嶺志]
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奈良・平安時代に宮都の警衛にあたった兵。諸国の軍団兵士から選ばれて上京,左右衛士府・衛門府に配され,宮中の禁衛,行幸の警備,京中の治安維持等にあたった。定員は時により増減があるが,805年(延暦24)の時点では合計1600人であった。勤務年限は養老令で1年と定めていたが,実際には長期にわたった。衛士になると課役が免除され,庸(よう)から食料が支給され,のちには郷土負担の銭が支給されたが,衛士の待遇は仕丁(しちょう)との類似点が多い。衛士は公民に課された過酷な徭役労働の一種であり,中央親衛軍ではしだいに官人・豪族層による舎人(とねり)の武力を充実させて,衛士の軍事的意義は低下していった。792年の軍団制廃止後も衛士は公民から直接徴発され,延喜式制では左右衛門府に各600人が属した。
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…造宮省には四等官(卿,輔,丞,録),史生,造宮省工,将領,算師らがいた。天平17年(745)の4月と10月の〈造宮省移〉によれば下部機構として長上工,番上工,直丁,飛驒匠,焼炭仕丁,作瓦仕丁,衛士,火頭らが所属し,甲賀宮,恭仁宮,奈良宮で作業していたことが知られ,総計(4月1368人,10月1373人)のうち衛士(4月795人,10月760人)が過半を占め,兵力が労働力に流用されていることがわかる。卿や輔に軍事関係氏族の出身者や軍事関係の職歴をもつ者が任命されたのは,千数百人の集団を統率するため軍事的手腕を必要としたからである。…
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