目次 日本 重層の門 単層の門 中国 西洋 日本 神社の鳥居 や,住宅の簡単な門を除いた大部分の門は,中国伝来の形式であると考えられる。門は形式によって名づけられるほか,寺院の南大門,中門 ,総門,三門 (山門)など場所による名称,仁王(におう)門,随身(ずいじん)門など安置された像による名称があり,そのほか建礼門,桜田門など固有名詞をつけられたものなどがある。木造建築であるから,正面の柱間(はしらま)の数と,そこに開かれる戸口の数とによって,その規模が表され,五間三戸(ごけんさんこ),三間一戸,一間一戸というふうに呼ばれる。
重層の門 門は重層のものと単層のものとがあり,重層の門は,近世では楼門あるいは三(山)門と呼ばれていたが,最近では重層門のうち,下層に屋根をもたないものを〈楼門〉と呼び,上下層に屋根のある門を〈二重門〉と呼び分けるようになった。二重門は門のうちで最も規模の大きなもので,平城京の正門や,大寺院の南大門・中門などに用いられた。九間七戸の羅城門が最大で,七間五戸の朱雀(すざく)門がこれにつぐが,現存しない。遺構では五間三戸二重門の東大寺南大門や東福寺三門などが規模の大きいものである。奈良の諸大寺の南大門・中門は五間三戸で重層であったらしい。禅宗の三門は五間三戸二重門を制式とするが,これは古くからの伝統を伝えたものであろう。二重門の屋根はすべて入母屋(いりもや)造とする。楼門は五間三戸が最大で,東大寺中門の例があるが,他はすべて三間一戸で,まれに一間一戸(長岳寺楼門)のものがある。門は正面の柱間を奇数にとるが,法隆寺中門の四間二戸は他に例のない珍しい形式である。奈良時代には鐘楼,経楼などに楼造が用いられているから,中程度の規模の寺院では三間一戸の楼門も用いられていたであろう。平安時代以後,神社にも寺院建築の楼門,回廊などがとり入れられたので,鎌倉時代以後の楼門は寺院,神社を通じて,数多く残っている。楼門の屋根は京都八坂神社楼門(切妻造),栃木西明寺楼門(寄棟(よせむね)造)などの数例を除けば,みな入母屋造となっている。なお,重層の門には上を櫓(やぐら)とし,下に門を開いた城郭の櫓門や,俗に竜宮門などといわれる,下をアーチにし,上に木造建築をのせた日光大猷院皇嘉門などの中国風のものが若干ある。
単層の門 単層の門では法隆寺東院中門の七間のものが最大であったが,これは〈礼堂(らいどう)〉とも呼ばれているから,特殊なものであったろう。これにつぐものは平安京内裏の五間三戸の建礼門などの諸門であったが,現存するものはない。以上のものはその形式に名がつけられていないが,三間一戸以下の門にはそれぞれ名称がつけられている。三間一戸の門は奥行きの柱間が2間で,親柱4本の前後に4本ずつの側柱が計8本あるから〈八脚門〉と呼ばれる。八脚門は平安京内裏の建春門などの諸門,東大寺転害(てがい)門など寺院の築地(ついじ)に開かれる門などに多くの例があり,神社にも用いられる。屋根は切妻造のものがふつうであるが,法隆寺南大門のような入母屋造のものもある。また絵巻で見ると,一方に庇(ひさし)をつけたものがあり,清水寺西門は正面に向拝(ごはい)を設けている。
正面1間,側面2間の門は,側柱が4本あるので〈四足(よつあし)門〉〈四脚(しきやく)門〉と呼ばれ,社寺に最も広く用いられ,邸宅では,とくに身分の高い人の家に用いられた。八脚門までは柱はすべて円柱であるが,四脚門は本柱を円柱に,側柱を角にする。屋根は切妻造であるが,近世以後は入母屋造のものもでき,また唐破風(からはふ)形にしたものも現れる。
薬医門は側柱が片側だけにあるもので,本柱は門の中心より前方にあり,棟の真下にこない。この名称の起源については諸説があるが明らかでない。社寺と住宅の両方に用いられている。屋根は切妻造で正面は1間がふつうであるが,旧加賀屋敷御守殿(ごしゆでん)門であった東京大学赤門は,3間の大規模なものである。棟門は〈むねかど〉とも呼ばれ,本柱2本のみで屋根を支えるもので,社寺や住宅に広く用いられた。平安時代の絵巻には多く見えているが,四足門につぐ格式をもち,住宅では公家には用いられたが,武家では初めは用いられなかったようである。寺院では塔頭(たつちゆう)の門などに多い。
唐(から)門 は屋根全体を唐破風造にしたもので平安時代からあり,唐破風が側面に見える平(ひら)唐門と,唐破風を正面に見せた向(むかい)唐門とがある。軒先に唐破風をつけただけの門も唐門とふつう呼ばれているが,建築術語としては,屋根を支える垂木(たるき)が全部唐破風のような反転曲線からなっているものだけをいう。寺院の塔頭や住宅などに用いられ,棟門につぐ格式をもっていた。正面1間がふつうであるが,3間のもの(三宝院唐門)もあり,また下部の構造は四脚門,棟門,薬医門などいろいろある。唐門は近世になってからとくに賞用され,神社や霊廟建築にはかならずといってよいほど設けられた。
上土門(あげつちもん)は棟門の屋根を水平な板で葺き,上に土を上げたもので,住宅に多く用いられ,室町時代には武家のおもだった人の家に建てられた。絵巻には多く出ているが,現存のものは法隆寺上土門一つしかなく,これも屋根の上に土はのせず,檜皮(ひわだ)で土をのせた形に葺いている。塀重門(へいじゆうもん)は〈屛中門〉とも書かれ,2本の角柱を立て,貫(ぬき)も屋根もなく,たすきの組子を入れた2枚の扉をつったもので,おそらく寝殿造中門廊が簡略化されて塀となったとき,そこに開かれた門を屛中門と呼び,廊中に開かれた中門と区別したところから発生した名であろう。したがって,形式上の名称としての定義はむずかしい点がある。文献的には室町時代までさかのぼるが,できたのは鎌倉時代ころであろう。
冠木(かぶき)門は2本の門柱の上に横木をのせたもので,〈衡門〉ともいわれ,上土門とともに武家の屋敷に用いられた。釘貫(くぎぬき)門は2本の門柱の上部に貫を通したもので,冠木門と似ているので,現在では混同されている。平安時代の文献にはすでに見え,神社,住宅,町の木戸 ,関所 などに用いられている。平(へい)門という語は文献によく出ており,住宅の門のうち,程度の低いものであったことは明らかであるが,具体的な形は明らかでない。あるいは屋根のないものをいったのであったろうか。
高麗(こうらい)門は2本の門柱の上に冠木をのせ,腕木で桁(けた)を支え,切妻屋根をかけ,内方に控柱を立て,本柱と控柱の間にも切妻造の小屋根をかけ,門の扉をあけたとき雨にぬれないようにしたもので,わき戸を有するものもある。城の升形 (ますがた)の前方の門はこの形式とし,後方の門は櫓門とする。近世の武家屋敷は道路に面して家臣の住む長屋を設け,門は長屋に開かれたので,門の屋根は長屋の屋根と一連のものとなる。このような形の門を長屋門という。正面は3間とし,中央に門の扉をつけ,左右はくぐりとし,その左右に番所をおく。武家屋敷の門は格式によって形式が定められ,とくに大きな国持大名は独立した門を建てられるが,一般は長屋門で,10万石以上は左右に唐破風あるいは切妻の出番所付,5万石以上は葺下(ふきおろし)屋根の出番所,分家では5万石以上も片方出番所,片方出格子,1万石以上は両方とも出格子の番所と定められている(武家屋敷 )。腕木門は〈木戸門〉ともいわれ,内側に控柱を立て,本柱に腕木を通して出し桁を支え,屋根をかけたもので,現在でも住宅に用いられている。このほか,埋(うずみ)門,穴門,土門など,土塀や石垣の一部にあけられたくぐりの門があり,鉄門や銅製の鋳抜門など門の扉の材料・形式によって呼ばれているものもある。なお鳥居 も〈うえふかざる門〉と呼ばれて,門の一種である。
場所や用途によってつけられる名称には〈表門〉〈裏門〉や方位によって〈東門〉〈南門〉などがあるが,寺院の門にはこの種の名称が多い。南都六宗の寺院では四周の築地にあく門のうち,各方面の重要なものを〈大門〉といい,方角を冠して南大門,東大門というように呼び,回廊の正面にあく門を〈中門 〉,東西回廊にある門を〈楽門〉といった。奈良時代には南大門と中門を〈仏門〉,その他を〈僧門〉といっている。禅宗寺院では中門にあたるものを三門(山門)といい,五間三戸二重門を正式とし,左右に上層にのぼる山廊をつけ,南大門を〈総門〉と呼び,さらにその外に〈外門〉を設ける。住宅では寝殿造の中門廊に開かれた中門,その簡略な屛中門以外には特殊な呼び名はなく,茶室の露地(ろじ)に設けられる中門はこれからつけられた名であろう。明治時代以後は洋風の門が輸入されたが,現在では大建築は道路に直接面するから門は建てられず,住宅その他でも簡易なものが喜ばれ,昔のような門はしだいに少なくなり,門柱と門の扉だけというものが多くなっている。 →寺院建築 執筆者:太田 博太郎
中国 中国における門は,城壁の城門や,宮殿,寺廟,住宅などの区域に設けられる独立した建物の門をいうとともに,また建物の一部につくられた出入口をもいう。本来,〈門〉の字形は二枚扉の開き戸にかたどったもので,古くは二枚扉のものを門,一枚扉のものを戸と称したといい,また建物の出入口を戸,区域に独立して立つものを門といったともいう。古代以来,城壁には城門,里坊には坊門などが設けられた。宮城では路門,応門,雉門(ちもん),庫門,皐門(こうもん)が前後に設けられ,厳格な朝・寝の制度を規定していた。明・清時代の宮殿である紫禁城が,天安門から端門,午門,太和門を経てはじめて太和・中和・保和三殿の中心部に達する構成をもつのは,こうした古代の制度を踏襲した結果である。古代の宮殿などの大門には,前方左右対称に張り出した門楼を付設する闕 (けつ)という形式が常用され,その制度は紫禁城午門に現存する。これらの城門や宮門は,通常,高い基台をもち,その下部をくりぬいた門洞とし,上部に門楼をいただく形式になる。城壁に開かれる城門には,唐・宋時代ころから,外側を二重以上の周壁で囲む甕城(おうじよう) という形式が採用されたが,その制度も明・清の北京城に見られる。
このほか区域に独立して立つ門には各種の形式があり,宮殿や寺廟では屋根をいただく単層の門のほか,楼門の形式も常用され,また周壁を一歩後退させた一字牆や八字牆の平面構成も用いられた。また牌坊も門の一種で,古く華表(かひよう)に起源を置き,唐・宋時代には烏頭門 (うとうもん)などと呼ばれた,日本の冠木門に似た列柱と横材の簡単な形式をとる。孔子廟の櫺星門(れいせいもん)をはじめ,屋根をいただく華麗な牌楼 (パイロウ)形式も含めて,宮殿,寺廟などに木,石,塼(せん)造各種の遺構がある。また吊束(つりづか)に彫刻を施した垂花門という形式や,住宅,庭園では周壁に門洞をうがっただけの円洞門や八角,六角,瓶,蕉葉,葫蘆,海棠,蓮花など各種の形状の洞門もある。一方,建物の一部をなす出入口には,格門,版門,歓門など各種の形式があり,それらはむしろ日本でいう扉や玄関の類型に属するが,言語としては今日でも両種の意味に用いられている。 執筆者:田中 淡
西洋 古代エジプトの神殿にはピュロンpylōn(パイロンpylon)と呼ぶ塔門があり,傾斜した壁面をもつ二つの台形の建物をつなぎ,その中央に戸口を設けていた。ナイル川上流に多数建造された要塞の門も,二つの塔のあいだに扉口を設ける形式をとっていた。古代メソポタミア,古代ギリシア・ローマの諸都市の城壁の門も同様の基本形式をとっており,バビロンのイシュタル門(前6世紀),アテナイのディピュロン(前5世紀),ペルージアのアウグストゥスの門(前3~前2世紀),ローマ市の諸市門(3世紀),トリールのポルタ・ニグラ(4世紀),コンスタンティノープルの大市城壁の諸門(5世紀)などが代表例としてあげられる。また古代ローマでは,戦勝などを記念して凱旋門 と呼ばれるアーチ門が好んで建造された。古代の門は構造の単純なものが多かったが,なかには,エジプト新王国のラメセス3世葬祭殿(前12世紀前半)の門のように,門内の通路を屈折させたり,また,門の内部に升形を設け,その奥に第2の門を設けて,敵を升形内に閉じこめ,周囲の壁上から射殺するという工夫をしたものもあった。アテナイのディピュロンや,北アフリカ(ヌミディア)のランバエセLambaeseのローマ軍団本部(3世紀)の門はその好例である。古代の門扉は両開き扉を内開きにつくるのが通例で,開口部の上下両端に軸穴を設け,扉の枢(とぼそ)/(くるる)をはめ込み,内側に閂(かんぬき)を設けた。扉は木の厚板,青銅,まれには板石でつくられた。唐戸(からと)形式の扉もすでにつくられていた。
西欧中世の城郭の門は,防備的な門として高度に発達したもので,通常の門扉のほかに,落し格子portcullis,跳ね橋drawbridge,石落しmachicolationなどを備え,床には落し穴,天井や両側の壁に射出口を設けたものもあった。古代の木製扉については遺品がないが,中世の扉はほとんど木製で,外面,内面ともに大量の鉄帯,鉄鋲で補強されていた。12世紀からまったく鉄だけでつくられた格子扉が現れ,城郭用の粗い格子扉だけでなく,教会堂の内陣や礼拝堂の仕切り用に精妙なデザインの鉄製格子扉が用いられるようになった。
大砲の登場によって,中世の城郭や市城壁が無力なものとなったため,ルネサンス以降の門は急速に防備的性格を失い,宮殿や邸宅の門は,中世の教会堂内の障壁に用いられた技術を応用して,2本の門柱のあいだに鍛鉄製の両開き格子扉を入れる形式が通例となった。防備的な必要がなければ,風圧を受けることの少ない鉄格子扉は,簡単な門柱で支えることができ,便利だからである。このような門の作例として,17世紀以降のものが西欧諸国の宮殿,邸宅に多数見いだされる。
近代の門は,材料,形式,デザインこそ多種多様であるが,基本的には古代以来の両開き扉を,近世的な塀やフェンスに装置したものである。ただ日本の引戸建具の影響と,大きな車両の出入りの必要から,レールを用いた引戸式,あるいは吊り引戸式の扉をもつ門が新たに出現した。これは,門扉が大きく重くなると,枢,肘金,蝶番(ちようつがい)のみで支えることが困難になるためである。 執筆者:桐敷 真次郎