中近世の従属身分に属する農民。鎌倉時代から史料に見える。1300年(正安2)の鎮西下知状に,薩摩国谷山郡の百姓弥平太入道の名子次郎太郎が,谷山郡の地頭のために馬2頭,銭1貫文を責め取られたことが見えているが,これがもっとも古い史料である。名子の史料は数少ないが,畿内,中国,九州,北陸,陸奥の各地に散見し,ほぼ全国的に存在したことが確かである。名子は妻子,眷属,脇の者,下人(げにん)などと並び称されており,主人の家の内部の存在で,その家父長的支配に属すべきものとされていた。しかし前記の薩摩国谷山郡の名子が馬や銭を保有し,鎌倉時代末の加賀国軽海(かるみ)郷の名子江四郎なるものが板を売りに市へ出かけるなどの例を見ると,その経済的地位は必ずしも低いものばかりではなかったようである。上記の名子江四郎は別の文書では江四郎名(みよう)として現れ,独立した年貢徴収の対象として把握されている。なお名子については,これを農奴と見る説と,奴隷の解放過程のコロヌスに相当するものと見る説とがある。
執筆者:大石 直正 近世から近代にかけての名子は自立性を強めて,地主から家屋敷を借りて労働地代を提供するものに変わってきている。被官,譜代,脇の者,門屋(かどや)等の名称で呼ばれるものと同質であって,もとは有力な土豪的名主(みようしゆ)の家のなかに抱えこまれていた下人,奴婢層が,家族をもって名主の名田の一部を経営するようになったものである。自己の経営地をもつといっても自立した経営ではなく,基本的には名子主の経営の一部分を占めるにすぎず,それだけ人身的隷属性が強かった。名主-名子という名称にも示されるように族団的性格が強く,子孫に至るまで代々人身的に拘束されていた。近世の本百姓体制が整うなかで,有力な名子は自立して本百姓に上昇し,ここでようやく農民たる地位を認められた。しかし,なお自立しえない名子は,近世的従属農民として主家たる本百姓に分付(ぶんつけ)される存在で,一戸として認められないものであった。近世中期には,領主による名子解放政策(本百姓ないし水呑百姓への上昇)もあったが,なお残存するものが多かった。しかしその従属性はしだいに弱まり,家屋敷をもたないがゆえに労働地代を出す農民と意識されるようになった。水呑百姓が耕地を借りる小作人であるのに対して,名子は耕地の外に家屋敷をも借りるという点で区別されたのである。この段階では,名子と同じ意味で借屋という呼称も使われるようになった。村落内の地位も水呑=小作人より一段低く位置づけられており,それは近代に入ってからもほぼ同じであった。近代においては,名子は後進地や山間部に多く残り,時としては労働力確保のために積極的に創出された。その形態は,奉公人が名子として出たもの,移住者が名子となったもの,あるいは貧窮農民が子弟を有力な家の名子としたものなどであった。名子主は多くの場合地主層であった。
こうした名子も1910年代ごろから急速に解体していったが,一部では農地改革で家屋敷が農用付属施設として解放されるまで続いた。なお山間部では,薪炭林,放牧採草地を借りるために生じた山名子と呼ばれる形態も存在したが,その本質は近代の名子と同質であった。
執筆者:安孫子 麟
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中世~近世の下層農民の呼称。鎌倉末期に初見し、この場合は脇名(わきみょう)百姓、脇住(わきじゅう)、間人(もうど)、小百姓とよばれる階層と同様に、名主(みょうしゅ)層以下の弱小農民(小百姓層という)をさした。名主のように名田(みょうでん)を給付されることがなく、荘園(しょうえん)領主の直営地(一色田(いっしきでん)・間田(かんでん))や名田の一部を請作しており、安定的な経営を行えず、荘園領主や名主に隷属する側面が大きい。近世にかけてより隷属度を強め、江戸時代には地方によって家抱(けほう)、分附(ぶんつけ)、譜代(ふだい)、被官(ひかん)などとよばれた。主家より家地、耕地、山林などを借り受けて生活するかわりに、主家の求めに応じて労力を提供する義務があり、宗門に至るまで主家に隷属した。しかし、その存在形態は家内奴隷的なものから中世の小百姓のようなものまで多様であった。農村経済の発展、名子の自立闘争などによってしだいに解放され本百姓化していったが、生産力の停滞した地方では近代まで名子制度が残存し、第二次世界大戦後の農地改革によって完全に解放・消滅した。
[木村茂光]
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「みょうし」とも。中世~近世の隷属農民の身分呼称。中世,名主のもとで家内労働を担い,名田の一部を耕作し,自身が売買の対象にされた。中世末期,名田経営の解体にともなって経営の自立化が進んだが,近世にも多くの名子が残存した。近世では,中世から同様に隷属状態におかれていた被官百姓と併称され,名子・被官とよばれた。世襲的な借家・小作関係にもとづく強い隷属性が特徴で,村内での地位は水呑百姓以下であった。作子(つくりご)・門屋・譜代・内者・下人など地方により多様な呼称がある。近世を通して名子抜けして自立した者も少なくないが,一部には近代以降,第2次大戦後の農地改革まで存在した。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…通常は農業について使用される語で,単に小作といえば耕地の小作のことである。語源的には,日本中世の名主(名田所持者・親方)と名子(子方)との間の土地貸借関係から生じたもので,〈子作〉という意味であった。またヨーロッパについても,中世末期以降の土地の貸借関係を指して小作ということがある。…
…1598年(慶長3)の近江国蒲生郡今在家村の事例では,両帳の間で総面積,村高,屋敷数などがほぼ一致しているが,登録人数では名寄帳のそれが著しく少なく,検地帳の半数にすぎない。初期の検地帳には,村内の有力農民である長百姓(おさびやくしよう∥おとなびやくしよう)などとともに弱小で零細な小百姓(こびやくしよう),平百姓(ひらびやくしよう)などが多数登録され,その中には有力農民の血縁小家族や名子(なご),被官,家持下人なども含まれていた。領主による検地に際して,弱小農民は有力農民と並ぶ年貢負担者とされ,検地帳上では高請地(たかうけち)の名請人(なうけにん)として登録されていたが,村内における生産・生活の実態の中では弱小農民は有力農民の庇護下にあった。…
…すなわち,家内奴隷的性格をもつ譜代下人(ふだいげにん)の労働と,半隷属的な小農の提供する賦役労働とに依拠して,大経営が維持されていた。半隷属的小農は名子,被官,家抱(けほう),隠居,門屋(かどや)など各地でさまざまの呼び方をされているが,これらはいまだ自立を達成しえない自立過程にある小農の姿である。これらの小農は親方,御家,公事屋,役家などと呼ばれる村落上層農民(初期本百姓)に隷属し,生産・生活の全般にわたって主家の支配と庇護を受けていた。…
…地侍・名主百姓なども経営規模に差はあるものの,実体としてはこれと同じで,みずからも武装していた。
[兵と農の形成]
兵農分離による〈農〉の形成の基本コースは,中世社会において土豪・地侍・名主百姓のもとに従属し,事実上は家族を形成していながら,主人の意のままに売買,質入,譲渡される運命にあった下人・名子などが,主人から恩恵的に与えられ,あるいは内密に開墾した土地を耕作することによって,経済的自立の基礎を獲得していくところにある。このような土地は,一般に〈ほまち〉〈新開〉と呼ばれ,地質や水利条件は劣悪であったが,そこでの収穫物は自分のものとすることができ,生産意欲をかきたたせることになった。…
…江戸時代の村落は,前後の時代と比べると小農の比率が高く,比較的に均一な印象を与えるが,実際には上下の階層差が小さくなかった。村落の成員はほとんど百姓身分の農民だったが,初期には百姓以下の名子(なご),前地(まえち),被官(ひかん)などと呼ばれる隷属身分の下層農民がかなり存在した。また百姓身分であっても,家格によって家宅の構造や衣類の種類や婚姻,葬儀の形式などの区別が強いられていた。…
※「名子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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