日本大百科全書(ニッポニカ) 「キトラ古墳」の意味・わかりやすい解説
キトラ古墳
きとらこふん
鬼虎古墳とも書く。奈良県明日香(あすか)村の阿武山にある直径13.8メートル、高さ3.3メートルの二段築成の円墳。国の特別史跡。家形の特殊な構造の石槨(せっかく)をもつ。1983年(昭和58)に、南側の盗掘坑からファイバースコープを挿入した調査で、石槨内北側の漆喰(しっくい)塗りの白壁の上に、中国古代の四方を支配する神である四神のうち、北の方位神である玄武(げんぶ)が描かれていることが判明した。このときはスコープが壊れたため、調査は打ち切られた。その後1998年(平成10)3月に明日香村と奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)の調査団によって、ふたたび同じ盗掘坑より超小型カメラを挿入して調査が行われた。この結果、北の玄武以外にも東壁に青竜(せいりゅう)、西壁に白虎(びゃっこ)が描かれていることが確認された。青竜の上には日像、白虎の上には月像があり、さらに、天井石中央には天体の運行線が表された星宿図(せいしゅくず)が描かれていた。この星宿図は星の運行の基準を示す同心円や太陽の軌道を表す黄道、さらには天の川や北斗七星、オリオン座なども表現されており、高松塚古墳(キトラ古墳の北約1キロメートルに位置し、同様の四神や星宿図の壁画をもつ)よりも本格的なものである。これは中国の星宿図を模したものと考えられるが、星の運行の基準線を示す赤道と太陽の軌道である黄道が交わる位置(春分・秋分点)が本来の位置よりもずれているなどの問題点もみられる。
2001年の調査では、デジタルカメラ撮影によって、南壁にみごとな朱雀(すざく)が描かれていること、さらに東壁北寄りに寅(とら)の顔をもつ獣頭人身十二支像らしき壁画が発見された。その後、2004年4月からの文化庁の調査では、赤外線写真撮影によって「寅像」(顔はトラで、首から下は人の姿をしている)の細部が明らかとなり、右手に房飾り付きの矛(ほこ)らしき武器をもつことが判明した。また、北壁の玄武の下方には十二支の子(ね)の像があり、十二支像が東西南北の四壁に描かれていることが確実となった。
石槨は横口式のもので、幅は約1.32メートル、長さは約2.6メートル、高さは少なくとも1.1メートル以上と推定され、高松塚古墳のものと類似している。ただし天井の形態が、断面が台形をしていて、平天井の高松塚古墳よりわずかに古く、7世紀後半から8世紀にかけて築造されたものと考えられる。内部には土砂が流入しており、副葬品その他についてはこれからの調査をまつ。この古墳は、当時の大陸や朝鮮半島などの先進文化を受容して築造されたものであり、終末期古墳の内容から、被葬者は皇族か貴族の出身者が想定され、この時期の日本と東アジア世界の国際交流を考えるうえで重要な古墳である。
[大塚初重]
石室内の壁画は2004年8月から取り外され、奈良文化財研究所が中心となって修理と強化処理を施した。2016年よりキトラ古墳壁画保存管理施設で期間限定・事前登録制で公開されている。これら壁画4面と天井画は2019年、国宝に指定された。なお、古墳そのものは石室と同じ石材でふさぎ、埋め戻されている。
[編集部]