改訂新版 世界大百科事典 「裏千家流」の意味・わかりやすい解説
裏千家流 (うらせんけりゅう)
千利休を開祖とする茶道の流派の一つ。利休の孫宗旦が不審庵を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北の隣接地に今日庵,寒雲亭さらに又隠(ゆういん)を建てて移り住み,それが末子仙叟に譲られたことにより裏千家が成立。現在の15世に至るまで,代々宗室を名のっている。明治以後,裏千家では職場を中心にした婦人層と女学校への茶の湯普及につとめ,茶道人口の増大を図ったほか,現在では海外への茶道普及にも力を注いでいる。
利休から数えて4世にあたる仙叟宗室は,はじめ医師を志して野間玄琢に師事し,玄室と称していたが,玄琢の死後千家に戻り,のち加賀藩主前田利常の茶道茶具奉行として仕えるところとなった。その折,京都から大樋長左衛門を伴って金沢に赴き,〈大樋焼〉を開窯し,宮崎寒雉を指導して茶の湯釜を鋳造させたという。臘月庵と号し,織田有楽の孫三五郎長好とも交友をもっている。仙叟の子不休斎常叟は,5世を継承して加賀藩の茶道奉行となり,のち伊予松山藩主久松家にも仕えたが,32歳で夭折した。以後,明治に至るまで裏千家では両藩に仕えている。6世六閑斎泰叟は伊藤東涯に儒学を学び,学問の志が厚かったが33歳で没し,7世最々斎竺叟(さいさいさいじくそう)は表千家6世覚々斎原叟の子に生まれ,裏千家の養子に入ったが,25歳で没している。元禄時代を迎えると,好みの道具の中に華やかな蒔絵のものが多く使われるようになる。8世一灯宗室は原叟の三男に生まれたが,竺叟の早世により裏千家の養子となる。兄如心斎天然の薫育をうけ,兄とともに千家七事式を制定し,千家の中興に尽くした。11世玄々斎精中は,三河国奥殿領主松平乗友の子として生まれ,10歳で裏千家の養子に入る。1840年(天保11)の利休250年忌にあたり,表門,玄関,咄々斎,大炉の間,抛筌斎などを新築して様相を一変させた。また,幕末から明治の動乱期に千家の長老として禁中への献茶を図り,1872年(明治5)には《茶道の源意》を著した。その後歴代の家元によって流儀の興隆が図られ,現在茶道界で大きな勢力を有している。
執筆者:筒井 紘一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報