表千家を代表する茶室で表千家邸内(京都市上京区)に所在。また表千家流家元の庵号として呼ばれる。利休の賜死後,京都上京の本法寺前に千家再興を許された千少庵は,深三畳台目と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室をつくり,いずれかに〈不審庵〉の額を掲げていた。次いで千宗旦は一畳半を造立して不審庵と称した。これを受け継いだ江岑(こうしん)宗左が,父宗旦とはかり新しく平三畳台目に建て替えたのが,現存する不審庵の始まりである。現在の不審庵は1906年焼失ののち,13年に再建されたもので,宗旦の説いた利休流の端正な台目構えが踏襲されている。柿葺き(こけらぶき)切妻造の屋根の前面に庇(ひさし)を付け下ろして深い土間庇を形成しており,草庵茶室の外観の一つの典型を示している。内部には横に長い三畳台目。躙口(にじりぐち)の正面に床,床脇に給仕口をあけ,茶道口は点前座風炉先のほうにあく。
執筆者:中村 昌生
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表千家の代表的な茶室。京都・本法寺前に再興された千家に、2世少庵(しょうあん)は深三畳台目(だいめ)と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室を設けた。ついで3世宗旦(そうたん)は「床(とこ)なしの一畳半」を造立してこれを不審庵と称した。不審庵は利休の別号でもあり、利休が大徳寺門前に造立した四畳半にも不審庵の額が掲げられたという。1647年(正保4)4世江岑(こうしん)は、受け継いだ一畳半を畳んで新たに平三畳台目をおこした。これが表千家に存続する不審庵であり、現在のは1913年(大正2)の再建になる。杮葺(こけらぶき)切妻造の屋根に庇(ひさし)を組み合わせた軽快な外観は、草庵茶室の優れた一典型であり、内部は、中柱を中心に利休流の端正な台目構えの手法が示されている。躙口(にじりぐち)の正面に床(とこ)、床脇(とこわき)に給仕口をあけている。点前(てまえ)座の風炉(ふろ)先のほうに釣襖(ふすま)の茶道口をあけ、勝手付に板畳を添えているのが異色な構えである。
[中村昌生]
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…千利休を開祖とする茶道の流派の一つ。利休の孫宗旦が不審庵を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北の隣接地に今日庵,寒雲亭さらに又隠(ゆういん)を建てて移り住み,それが末子仙叟に譲られたことにより裏千家が成立。現在の15世に至るまで,代々宗室を名のっている。…
…山田宗徧は東本願寺の末寺である,京都二本松の長徳寺明覚の子として生まれ,周学と称していた。16歳で小堀遠州より印可をうけ,そののち千宗旦の門をたたいて還俗し,宗旦四天王の随一として四方庵,不審庵などの号を与えられ,利休流侘草庵茶の皆伝をうける。1655年(明暦1)宗旦の推挙で三河国吉田城主小笠原忠知に茶道をもって仕官し,三十数年間を同地ですごしている。…
※「不審庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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