裏千家(読み)ウラセンケ

デジタル大辞泉 「裏千家」の意味・読み・例文・類語

うら‐せんけ【裏千家】

千家流茶道分派の一。千利休の孫宗旦そうたんの四男宗室開祖とする。宗室が父から譲られた隠居所今日庵茶室)が本家裏手にあたるので、この称がある。裏流。裏。

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精選版 日本国語大辞典 「裏千家」の意味・読み・例文・類語

うら‐せんけ【裏千家】

  1. 〘 名詞 〙 茶道流派一つ三千家の一つ。利休の孫宗旦の四男宗室を開祖とする。宗室が父から譲られた隠居所今日庵(茶室)が本家の裏手にあたるので、この称がある。不審庵を相続した表千家と区別していわれる。裏流。
    1. [初出の実例]「今都下に行はるる所の流派は、千家、裏千家(ウラセンケ)、不白千家、石州、有楽、遠州等なり、就中裏千家最も行はるるが如し」(出典:東京風俗志(1899‐1902)〈平出鏗二郎〉下)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「裏千家」の意味・わかりやすい解説

裏千家
うらせんけ

千利休(せんのりきゅう)を祖とする茶道の流派の一つ。表千家、武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とともに三千家とよばれている。「今日庵(こんにちあん)」の名で通称される。1591年(天正19)利休切腹のあと、養嗣子(ようしし)の少庵宗淳(そうじゅん)(1546―1614)が2世となったが、まもなく子の宗旦(そうたん)(1578―1658)に千家を譲って隠棲(いんせい)した。宗旦は幼くして大徳寺に入り、春屋宗園(しゅんおくそうえん)のもとに喝食(かっしき)として侍していたが、千家の再興が許されるや還俗(げんぞく)して、少庵とともに利休遺跡を守った。宗旦は若くして長男宗拙(そうせつ)、次男宗守をもうけているが、父少庵が遠行したころに宗見(そうけん)を後妻として迎え、江岑宗左(こうしんそうさ)、くれ、仙叟宗室(せんそうそうしつ)の3子をもうけている。その後、わび宗旦の名があがるとともに、近衛信尋(このえのぶひろ)、烏丸光広(からすまるみつひろ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らと親交し、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮東福門院の知遇を受け、さらに宗左は紀州徳川家、宗室は加賀前田家に仕えることになった。しかし宗旦自身は周囲の勧めをいっさい断って、大名に仕えることなく一人孤高を守った。「乞食宗旦」と称されるのはそのためである。だがその間に、宗旦四天王といわれる山田宗徧(そうへん)、藤村庸軒(ようけん)、杉木普斎(ふさい)、三宅亡羊(みやけぼうよう)らの高弟を育てている。その後71歳になったときに、不審庵(ふしんあん)を宗左に譲り、末子の仙叟宗室とともに、同所の北裏に建てた今日庵寒雲亭に移り住んでいる(このことが後年裏千家と俗称されることになった)。さらに数年後には又隠(ゆういん)を建てたが、これらを仙叟に譲って81歳で他界した。ここに江岑宗左の「不審庵」(表千家)、仙叟宗室の「今日庵」(裏千家)、のちに一翁宗守(いちおうそうしゅ)の建てた「官休庵」(武者小路千家)がともに独立し、三千家が成立したのである。

 4世仙叟宗室(1622―1697)は、初め医師を志し、野間玄琢(げんたく)について医学を修業、玄室と称したが、師の没後、茶道に専念するようになった。ちなみに玄室の名は家元を継承する前か、隠居後に用いられ、仙叟以後、家元を継承してからは宗室を襲名している。仙叟は加賀藩主前田利常(としつね)に仕え、茶道茶具奉行(ぶぎょう)となっている。またその間に陶工長左衛門に大樋焼(おおひやき)を、宮崎寒雉(かんち)に釜(かま)をつくらせている。5世常叟宗室(じょうそうそうしつ)(1673―1704)は、仙叟他界の跡を継いで加賀藩の茶道茶具奉行となったが、のち伊予松山藩久松家の茶道奉行として知行を与えられている。以後裏千家では幕末に至るまで両藩に仕えた。しかしながら常叟は32歳の若さで生涯を終えている。不休斎の号がある。

 6世六閑斎(りっかんさい)宗安(1694―1726)は、常叟の長男として生まれたが、11歳で父を失ったため、表千家の覚々斎、如心斎から茶道の薫陶を受け、とくに如心斎とは兄弟以上に親交したといわれる。六閑斎はまた伊藤東涯(とうがい)について儒学を学び、謡曲、狂言、画、書なども巧みであった。しかし松山藩主久松侯に仕えて江戸に出府中、その屋敷内で33歳の生涯を終えている。泰叟と別号する。妹はのち剃髪して北野の尼寺西方寺に入り、祖仙尼と称して竺叟宗乾(ちくそうそうけん)、一燈宗室の後見をなし、同寺の第30世住職となっている。7世竺叟宗乾(1709―1733)は、表千家6世原叟(げんそう)の次男として誕生したが、六閑斎に子がなかったため養子として迎えられた。加賀藩、伊予藩に奉行として出仕したが、25歳で没している。最々斎と別号する。

 8世一燈宗室(1719―1771)は、兄竺叟の早世により、表千家から養子として迎えられた。15歳で家元を継承し、長兄如心斎に薫陶を受け、ともに修行を重ねて七事式(しちじしき)を制定した。又玄斎(ゆうげんさい)、勿々軒(ぶつぶつけん)の別号がある。高弟の速水宗達(はやみそうたつ)は備前(びぜん)池田侯に仕え、のち速水流をおこしている。以後、9世石翁玄室(せきおうげんしつ)(1746―1801)、10世認得斎(にんとくさい)宗室(1770―1826)と続いた。

 11世玄々斎宗室(1810―1877)は、三河国奥殿(おくどの)領主大給(おぎゅう)松平乗友の子として生まれ、10歳で裏千家に養子として迎えられている。利休二百五十回忌を機に、表門、咄々斎(とつとつさい)、大炉の間、抛筌斎(ほうせんさい)、利休堂清寂院などを増築した。不忘、虚白斎(きょはくさい)と号する。12世又玅斎玄室(ゆうみょうさいげんしつ)(1853―1917)、13世円能斎宗室(1872―1924)、14世淡々斎宗室(1893―1964)、15世鵬雲斎(ほううんさい)宗室(1923― )を経て、現在16世坐忘斎(ざぼうさい)宗室(1956― )が家元(京都市上京区小川通寺之内上ル)を継承している。

[筒井紘一]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「裏千家」の解説

裏千家
うらせんけ

江戸初期に成立した茶道三千家(さんせんけ)の一つ。千利休を祖とし,子の少庵(しょうあん)を2世とし,3世宗旦(そうたん)が子の江岑宗左(こうしんそうさ)に茶室不審庵(ふしんあん)(京都市)を譲り,その隣接地に茶室今日庵(こんにちあん)を建造して移り住んだ。この茶室を宗旦の四男仙叟(せんそう)宗室が継承して,今日庵1世を名のり,裏千家とよばれるようになった。代々斎号とともに宗室を名のり,現15世鵬雲斎(ほううんさい)宗室まで約300年にわたって,利休流茶道の伝統の保持と改革に尽力。茶道家元として最大の規模を誇り,諸外国にも多くの支部をもつ。月刊誌「淡交」を刊行し,茶道の研究にも尽くす。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「裏千家」の意味・わかりやすい解説

裏千家
うらせんけ

茶道千家の家系,三千家の一つ。千宗旦不審庵を江岑 (こうしん) 宗左に譲り,茶室今日庵を建ててしばらく住んでいたが,さらに又隠 (ゆういん) に移り,今日庵を江岑の弟の仙叟宗室に譲った。今日庵は不審庵の庭続き北裏にあったので裏千家といわれた。現在では完全に分離している。1世利休,2世少庵,3世宗旦,4世宗室以降,現在まで継承されている。庵号を今日庵という。

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世界大百科事典(旧版)内の裏千家の言及

【表千家流】より

…それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。ここに表千家と裏千家が成立した。…

【又隠】より

…今日庵とともに裏千家を代表する茶室。京都上京の裏千家邸内に所在。…

※「裏千家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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