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裏千家 うらせんけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

裏千家
うらせんけ

茶道千家の家系,三千家の一つ。千宗旦不審庵を江岑 (こうしん) 宗左に譲り,茶室今日庵を建ててしばらく住んでいたが,さらに又隠 (ゆういん) に移り,今日庵を江岑の弟の仙叟宗室に譲った。今日庵は不審庵の庭続き北裏にあったので裏千家といわれた。現在では完全に分離している。1世利休,2世少庵,3世宗旦,4世宗室以降,現在まで継承されている。庵号を今日庵という。

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大辞林 第三版の解説

うらせんけ【裏千家】

茶道の一流派。千利休の孫宗旦の四男仙叟せんそう宗室が利休の四世を称したのに始まる。宗室が父から譲られた茶室今日庵が、表千家の裏にあたるのでこの名がある。裏。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

裏千家
うらせんけ

千利休(せんのりきゅう)を祖とする茶道の流派の一つ。表千家、武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)とともに三千家とよばれている。「今日庵(こんにちあん)」の名で通称される。1591年(天正19)利休切腹のあと、養嗣子(ようしし)の少庵宗淳(そうじゅん)(1546―1614)が2世となったが、まもなく子の宗旦(そうたん)(1578―1658)に千家を譲って隠棲(いんせい)した。宗旦は幼くして大徳寺に入り、春屋宗園(しゅんおくそうえん)のもとに喝食(かっしき)として侍していたが、千家の再興が許されるや還俗(げんぞく)して、少庵とともに利休遺跡を守った。宗旦は若くして長男宗拙(そうせつ)、次男宗守をもうけているが、父少庵が遠行したころに宗見(そうけん)を後妻として迎え、江岑宗左(こうしんそうさ)、くれ、仙叟宗室(せんそうそうしつ)の3子をもうけている。その後、わび宗旦の名があがるとともに、近衛信尋(このえのぶひろ)、烏丸光広(からすまるみつひろ)、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らと親交し、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮東福門院の知遇を受け、さらに宗左は紀州徳川家、宗室は加賀前田家に仕えることになった。しかし宗旦自身は周囲の勧めをいっさい断って、大名に仕えることなく一人孤高を守った。「乞食宗旦」と称されるのはそのためである。だがその間に、宗旦四天王といわれる山田宗(そうへん)、藤村庸軒(ようけん)、杉木普斎(ふさい)、三宅亡羊(みやけぼうよう)らの高弟を育てている。その後71歳になったときに、不審庵(ふしんあん)を宗左に譲り、末子の仙叟宗室とともに、同所の北裏に建てた今日庵寒雲亭に移り住んでいる(このことが後年裏千家と俗称されることになった)。さらに数年後には又隠(ゆういん)を建てたが、これらを仙叟に譲って81歳で他界した。ここに江岑宗左の「不審庵」(表千家)、仙叟宗室の「今日庵」(裏千家)、のちに一翁宗守(いちおうそうしゅ)の建てた「官休庵」(武者小路千家)がともに独立し、三千家が成立したのである。
 4世仙叟宗室(1622―1697)は、初め医師を志し、野間玄琢(げんたく)について医学を修業、玄室と称したが、師の没後、茶道に専念するようになった。ちなみに玄室の名は家元を継承する前か、隠居後に用いられ、仙叟以後、家元を継承してからは宗室を襲名している。仙叟は加賀藩主前田利常(としつね)に仕え、茶道茶具奉行(ぶぎょう)となっている。またその間に陶工長左衛門に大樋焼(おおひやき)を、宮崎寒雉(かんち)に釜(かま)をつくらせている。5世常叟宗室(じょうそうそうしつ)(1673―1704)は、仙叟他界の跡を継いで加賀藩の茶道茶具奉行となったが、のち伊予松山藩久松家の茶道奉行として知行を与えられている。以後裏千家では幕末に至るまで両藩に仕えた。しかしながら常叟は32歳の若さで生涯を終えている。不休斎の号がある。
 6世六閑斎(りっかんさい)宗安(1694―1726)は、常叟の長男として生まれたが、11歳で父を失ったため、表千家の覚々斎、如心斎から茶道の薫陶を受け、とくに如心斎とは兄弟以上に親交したといわれる。六閑斎はまた伊藤東涯(とうがい)について儒学を学び、謡曲、狂言、画、書なども巧みであった。しかし松山藩主久松侯に仕えて江戸に出府中、その屋敷内で33歳の生涯を終えている。泰叟と別号する。妹はのち剃髪して北野の尼寺西方寺に入り、祖仙尼と称して竺叟宗乾(ちくそうそうけん)、一燈宗室の後見をなし、同寺の第30世住職となっている。7世竺叟宗乾(1709―1733)は、表千家6世原叟(げんそう)の次男として誕生したが、六閑斎に子がなかったため養子として迎えられた。加賀藩、伊予藩に奉行として出仕したが、25歳で没している。最々斎と別号する。
 8世一燈宗室(1719―1771)は、兄竺叟の早世により、表千家から養子として迎えられた。15歳で家元を継承し、長兄如心斎に薫陶を受け、ともに修行を重ねて七事式(しちじしき)を制定した。又玄斎(ゆうげんさい)、勿々軒(ぶつぶつけん)の別号がある。高弟の速水宗達(はやみそうたつ)は備前(びぜん)池田侯に仕え、のち速水流をおこしている。以後、9世石翁玄室(せきおうげんしつ)(1746―1801)、10世認得斎(にんとくさい)宗室(1770―1826)と続いた。
 11世玄々斎宗室(1810―1877)は、三河国奥殿(おくどの)領主大給(おぎゅう)松平乗友の子として生まれ、10歳で裏千家に養子として迎えられている。利休二百五十回忌を機に、表門、咄々斎(とつとつさい)、大炉の間、抛筌斎(ほうせんさい)、利休堂清寂院などを増築した。不忘、虚白斎(きょはくさい)と号する。12世又斎玄室(ゆうみょうさいげんしつ)(1853―1917)、13世円能斎宗室(1872―1924)、14世淡々斎宗室(1893―1964)、15世鵬雲斎(ほううんさい)宗室(1923― )を経て、現在16世坐忘斎(ざぼうさい)宗室(1956― )が家元(京都市上京区小川通寺之内上ル)を継承している。[筒井紘一]

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世界大百科事典内の裏千家の言及

【表千家流】より

…それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。ここに表千家と裏千家が成立した。…

【又隠】より

…今日庵とともに裏千家を代表する茶室。京都上京の裏千家邸内に所在。…

※「裏千家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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