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宮崎寒雉 ミヤザキカンチ

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デジタル大辞泉の解説

みやざき‐かんち【宮崎寒雉】

[?~1712]江戸中期の釜師。能登の人。名は義一。前田家の兵器や鳴物(なりもの)類を鋳造していたが、のち茶の湯釜を作った。子孫は代々寒雉を名のり、現在に至る。

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百科事典マイペディアの解説

宮崎寒雉【みやざきかんち】

江戸中期の釜師。能登の人。名は義一,通称彦九郎。初め兵器や鉦鼓(しょうこ)等を作ったが,前田利常の御用釜師となって金沢に住んだ。大西浄清の弟子ともいわれる。薄作りで砂肌(すなはだ),青みを帯びた作で,大講堂,乙御前(おとごぜ)など元禄年間の作が多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宮崎寒雉 みやざき-かんち

?-1712 江戸時代前期の釜師(かまし)。
能登(のと)(石川県)中居の鋳物師の家に生まれる。京都で大西浄清の門にはいったという。金沢藩主前田利常の御用釜師となり,千宗室(仙叟(せんそう))の指導をうけて柏葉釜,焼飯釜などの茶釜をつくった。正徳(しょうとく)2年2月死去。享年は80歳余。名は義一。通称は彦九郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

宮崎寒雉

没年:正徳2(1712)
生年:寛永10?(1633)
江戸中期の釜師。宮崎家は代々,能登国仲居村(石川県鳳至郡)で鋳物業を営んでいたが,天正年間(1573~92)に金沢に出て前田家に仕えた。幼名は義一,通称を彦九郎といい,のちに剃髪して徳翁と号した。京都に上り,大西浄清のもとで釜作を学び,小松城造営に際して加賀藩主前田利常に召されて金沢に戻り,御用釜師となった。作風は,師浄清を受け継いだ砂肌で,薄作りのすっきりとしたものが多く,柏葉釜,乙御前釜,大講堂釜などがある。また,釜以外にも仏具類の作品も多く手がけ,寛文7(1667)年から天和1(1681)年ごろの紀年銘を有する銅鐘や三具足などの作例が金沢市近辺の諸寺に伝えられている。初代寒雉には男子がなかったため,辻与次郎の末孫が養子となり2代寒雉を継ぎ,以降代々寒雉の名を継承して現代に至っている。<参考文献>香取秀真『新撰釜師系譜』,木下桂風『釜―歴史と鑑賞―』

(加島勝)

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世界大百科事典 第2版の解説

みやざきかんち【宮崎寒雉】

1633‐1712(寛永10‐正徳2)
釜師。能登国中居村の鋳物師の家に生まれた。名は義一。通称彦九郎。徳翁と号した。京都へ上り大西浄清の門人となり,釜作を学んだ。のち加賀藩主前田利常の御用釜師となり,金沢に住した。作風は砂肌が多く,総じて薄作で器用なものが多い。釜の形式には乙御前(おとごぜん)釜,大講堂釜などがある。鐘や三具足などの遺品もあり,金沢の諸寺に現存する。2代寒雉は辻与次郎の孫を養子としたもので,代々寒雉を継いで現代に至る。【大角 幸枝】

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大辞林 第三版の解説

みやざきかんち【宮崎寒雉】

1633~1712) 江戸中期の釜師。能登の人。本名は義一。子孫は前田家の御用釜師として代々仕えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宮崎寒雉
みやざきかんち
(?―1712)

江戸中期の茶の湯釜(かま)師。名は義一、彦九郎と称した。能登(のと)国(石川県)中居の鋳物師の出身。前田利常(としつね)に召し出されて金沢に住み、初めは兵器や鉦(しょう)(鳴物(なりもの))の類を製作していたが、のち釜作りに転じた。釜作りの師は京の大西浄清(じょうせい)といわれ、裏千家の仙叟(せんそう)の指導を受けたとも伝えられる。作風は砂肌に「ざんぐり出来(でき)」の薄作りのものを得意とし、柏葉、乙御前(おとごぜ)、車軸、大講堂などの釜の形式があり、ほかに梵鐘(ぼんしょう)や仏具も金沢市内の寺に現存する。正徳2年2月、八十余歳で没したという。宮崎家は代々寒雉を名のり、名跡(みょうせき)は現在にまで及ぶ。[原田一敏]

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世界大百科事典内の宮崎寒雉の言及

【裏千家流】より

… 利休から数えて4世にあたる仙叟宗室は,はじめ医師を志して野間玄琢に師事し,玄室と称していたが,玄琢の死後千家に戻り,のち加賀藩主前田利常の茶道茶具奉行として仕えるところとなった。その折,京都から大樋長左衛門を伴って金沢に赴き,〈大樋焼〉を開窯し,宮崎寒雉を指導して茶の湯釜を鋳造させたという。臘月庵と号し,織田有楽の孫三五郎長好とも交友をもっている。…

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