表千家流(読み)おもてせんけりゅう

改訂新版 世界大百科事典 「表千家流」の意味・わかりやすい解説

表千家流 (おもてせんけりゅう)

千利休開祖とする茶道流儀の一つ。代々宗左を名のる。利休切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。ここに表千家と裏千家が成立した。のち宗旦の次男一翁宗守が官休庵を起して武者小路千家流を称し,三千家が成立した。この4世江岑宗左(逢源斎,堪笑軒)は30歳のとき紀伊徳川家に仕えた。藩主頼宣より千家の由緒系譜を徴され,《千家由緒書》を提出した。また宗旦の言を伝えた《江岑夏書(げがき)》を児孫のために残している。以後幕末に至るまで代々紀伊徳川家に仕える。6世覚々斎宗左(原叟,流芳軒)は,先代随流斎良休の長兄久田宗全の子として生まれ,12歳のころ養子となる。14歳で養父と死別したため藤村庸軒の薫育をうける。ときに紀州徳川家の藩主頼方は倹約綱紀粛正に努めたが,侘茶(わびちや)を心とする千家の茶を好み,吉宗と名を改め,8代将軍となってからも〈桑原茶碗〉を覚々斎に下賜するほどであった。覚々斎は内室秋とのあいだに如心斎,裏千家の養子となった竺叟,一灯の3子をもうけた。7世如心斎宗左(天然,丁々軒)は,三井八郎右衛門の経済的援助をうけて千家の中興につくした。そして弟の一灯宗室,川上不白,中村宗哲,堀内宗心,無学和尚らとはかり千家七事式を制定した。8世啐啄斎(そつたくさい)宗左(仙翁)は8歳で父如心斎と死別したため,川上不白,叔父一灯宗室の薫育をうけて成長。天明大火によって焼亡した屋敷を再建し,利休二百回忌を厳修している。9世了々斎宗左(曠叔,好雪軒)は久田家6世宗渓の長男として生まれ,啐啄斎の娘たくの婿養子として迎えられた。楽旦入とともに紀州に赴き,製陶につとめた。紀州徳川家の当主治宝(はるとみ)を迎えるに際し,表千家の総門である武家門を建てたという。10世吸江斎宗左(祥翁,安祥軒)は了々斎の弟久田皓々斎と啐啄斎の娘さわの子として生まれ,8歳で養子となる。住山楊甫が後見し,治宝より真台子(しんのだいす)の皆伝をうける。11世碌々斎宗左(瑞翁,碧雲軒)と,12世惺斎宗左の時代は,維新後の茶の湯衰退期にあたったため,苦難の時代に神社・仏閣への献茶・供茶を繰り返し,千家の伝統を守りながら,茶道の愛好者増大に努力した。1937~79年13世即中斎宗左,80年14世而妙斎宗左が継承,現在に至る。
裏千家流
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百科事典マイペディア 「表千家流」の意味・わかりやすい解説

表千家流【おもてせんけりゅう】

茶道の一流派。千利休を祖とし,千家の正統を誇る。江戸初期,利休の孫千宗旦の三男千宗左が利休の建てた茶室不審庵を継いだ後,表千家の名が起こる。これは宗左が伝来の屋敷の表に住したことによる。以後代々の家元は宗左を名乗り,現在は14世〔1938-〕。→裏千家流
→関連項目江戸千家流三千家千家流不審庵

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