日本歴史地名大系 「西条村」の解説
西条村
さいじようむら
板野郡の南西端に位置し、南部を吉野川が流れる。東は
西条村
さいじようむら
甲府盆地の中央部、釜無川左岸に位置する。北東は
西条村
にしじようむら
西条村
にしじようむら
- 三重県:上野市
- 西条村
貞享四年(一六八七)新検を改め、本高二七一・六四石、平高五八五・七五石、うち多賀与一郎三〇〇石、力石勘五郎二〇〇石の給地があり、蔵入地は少ない。
西条村
にしじようむら
- 長野県:中野市
- 西条村
東は中野村、南は
中世は中野郷に属し、初出は嘉応二年(一一七〇)の某下文(市河文書)に、
とみえる。建久三年(一一九二)一二月一〇日、藤原助広(弘)が中野郷西条の地頭職に補せられ、将軍家(源頼朝)政所下文を与えられてより中野氏の支配地となり、文永九年(一二七二)中野氏より市河盛房に譲られて以後は、南北朝・室町時代初期を通じ長く市河氏の所領であった(同文書)。その後、高梨氏が中野地方に進出し、高梨政高は寛正四年(一四六三)一二月、西条の
西条村
にしじようむら
西条村
にしじようむら
西条村
にしじようむら
西条村
にしじようむら
松本藩領
「延喜式」の記す越後国への支路は
天正検地帳では村高四五九石五斗六升であるが、慶長一九年(一六一四)の安曇筑摩両郡御改惣寄帳には青柳西条村六〇〇石七斗九升六合余とあり、中世には青柳郷に属していたが、のち独立の村となった。
西条村
にしじようむら
西条村
にしじようむら
東は
「徇行記」によれば、概高二千五八石余のうち一千九〇五石余が藩士三二人の給知で、田は一二一町九反六畝余、畑は二九町九反三畝余。「寛文覚書」に家数一六三、人数八九九とある。「徇行記」は「此村中佐屋街道ヨリ北ヘ入リ、甚目寺村観音大門サキヘ通スル街道アリ、是ハ小牧街道也、土人是ヲ柳街道ト唱ヘリ(中略)両水鑑ニ西条村ノ内甚目寺村界ヨリ大切戸先マテ巾十間余ノ川アリ、右両村悪水落ナリシカ、本多久兵衛コヽヲ新田ニ見立、村ヨリモ願ヒケレトモ小切戸ニ水筒ヲ伏、其様子ヲ見シ上ニテ新田ヲ開クヘシトテ、篠田村ニ長十一間巾一間高四尺ノ水筒ヲ伏ケレハ、悪水落方宜シトテ遂ニ其地ヲ新田トナシ、下田・安松・遠島・川部・西条五ケ村三町三反ホト寛文五巳年開墾ストナリ」と記し、草分百姓若原伝右衛門の名を伝える。
西条村
にしじようむら
西条村
にしじようむら
- 京都府:亀岡市
- 西条村
北は
中世は東の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報