西福寺跡(読み)さいふくじあと

日本歴史地名大系 「西福寺跡」の解説

西福寺跡
さいふくじあと

[現在地名]有田市初島町浜 脇本

中世、字脇本わきもとにあった真言宗寺院。廃絶に至る経緯は明らかでないが、当地の山本家に伝存する西福寺文書によれば、弘安元年―文安四年(一二七八―一四四七)の間の存続が知られ、弘安元年には敷屋しきや荘荘司兼能・本預光俊が水田一段を寄進している(同年一〇月日荘司兼能・本預光俊連署寄進状)。また嘉暦元年(一三二六)八月七日の某宛行状によれば「御室御領西枡庄内薬師堂別当職」が西椒にしはじかみ荘公文宗景に宛行われている。


西福寺跡
さいふくじあと

[現在地名]知覧町郡

豊玉姫とよたまひめ神社の北東にあった曹洞宗寺院。跡地は現在の島津墓地。極楽山松峯院と号し、本尊釈迦如来。大隅佐多さたに居住していた佐多氏義は、鹿児島福昌寺末として佐多に極楽山西福寺を建て、石屋真梁の弟子覚隠(享徳二年死去)開山とした。応永二七年(一四二〇)氏義の子親久は知覧に移封され、これに伴って当寺も移転し、佐多氏の菩提寺となった(以上「三国名勝図会」、佐多氏系図)。安政年間(一八五四―六〇)頃の記録によると、一四石余は領主寄進とされており、仏餉米四石余も領主の蔵方から支払われた(知覧町郷土誌)


西福寺跡
さいふくじあと

[現在地名]安浦町内海 寺迫

亀山かめやま八幡神社の西方谷奥にあった。「芸藩通志付載の地図によると廃西福寺跡には観音堂があったことが知れる。この観音堂には木造観世音菩薩立像(総高一・〇七メートル、一木造)および胎内納入品が伝えられ、現在は保存会の所有となっているが、いずれも県指定重要文化財。その一つ沙弥円教施入摺仏目録(折紙)に「観音三百三十躰、すりうつしまいらせて候心さし候もく六(中略)右もく六如件、正和四年正月十八日、沙弥円教」と記され、また、総数一千八〇〇余枚にのぼる観音立像の摺仏紙(縦一五センチ・横八センチ)胎内から発見された。


西福寺跡
さいふくじあと

[現在地名]山鹿市石 仁田窪

岩野いわの川右岸に所在した中世禅宗寺院跡。「古記集覧」所収の文明一三年(一四八一)八月の菊池重朝一万句発句興行の中に石村西福寺の僧、源宥の詠じた月田という一句が残る。寛文九年(一六六九)の「一統志」に「西福禅寺阿弥陀」とあるので、江戸前期頃までは堂宇が存在したが、「国誌」には古跡と記される。創建時期は不明であるが、装飾古墳で知られるチブサン古墳への登り口の岩壁に西福寺磨崖仏が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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