日本大百科全書(ニッポニカ) 「視学制度」の意味・わかりやすい解説
視学制度
しがくせいど
校長・教師その他の教育職員が適切に教育活動を行うように、また教育上の技術、知見について進歩・向上するために、専門的教育職員が指導、援助あるいは監督を行う制度。諸外国においては視学機関の任務は、当初教員の監督にあったが、今日では指導、援助に変わってきている。
[高橋寛人]
中央視学
日本の中央視学機関は、1872年(明治5)に文部省に督学を、翌年督学の下に視学を置くと定めたことに始まるが、これらは十分に実現しなかった。86年に視学官が設けられ、その後の改廃を経て1913年(大正2)には視学官は督学官に改称された。29年(昭和4)には社会教育官が、37年には思想統制のために教学官が置かれた。42年には督学官、社会教育官、教学官をあわせて新たに教学官と称するようになった。さらに37年以降は現役の将校が視学委員に任じられて、軍事教練の視察を行った。
[高橋寛人]
地方視学
他方、最初の地方視学は、巡回訓導および督業訓導であった。これは明治初期に各地方で自主的に設けられ、名称・職務内容もまちまちであったが、1884年文部省は一括して小学督業とした。これらはいずれも近代教育制度創立期の啓蒙(けいもう)者として教員の指導にあたった。90年に各郡に郡視学を置くことが定められ、97年には各県2、3名の地方視学が置かれることとなった。99年にはさらに視学官が設けられた。視学官は学事視察を行うほか、教育学芸を担当する内務部第三課の課長を兼任した。
[高橋寛人]
性格
中央・地方の視学機関はいずれも、学事の視察にあたって強大な監督、命令権をもち、また教員人事にも介入したため、教育の国家統制が強まるにつれて教員に恐れられる存在となり、視学本来の専門的指導助言機能は果たされず、監督的、統制的になり、教員の教育活動を圧迫するという致命的な弊害を招いた。
[高橋寛人]
戦後の改革
第二次世界大戦後、このような視学制度の抜本的な改革が行われた。地方においては1948年(昭和23)に指導主事制度が誕生し、従来とは名称、職務の性格とも一変した。指導主事は監督的、統制的な視学とは異なり、教員の人事に関与せず、もっぱら教員の相談相手として指導、援助を行うこととなった。中央視学機構も従来の性格を改め、今日では連絡および専門的な指導、助言を行う視学官(専任)、視学委員(非常勤)などが置かれている。
[高橋寛人]
『文部省調査普及局編『わが国及び各国における視学制度』(1949・刀江書院)』▽『神田修著『明治憲法下の教育行政の研究』(1970・福村出版)』