賢俊(読み)けんしゅん

  • 賢俊 けんしゅん

美術人名辞典の解説

鎌倉後期・南北朝時代の。権大納言日野俊光の子。三宝院の賢助師事。建武三年権僧正になり醍醐寺座主に補され東寺長者となる。のち大僧正となり醍醐寺の伽藍を再建した。光厳院の院宣錦旗とを奏請しこれを足利尊氏に授けてから尊氏崇敬を受け、枢機にも参画した。延文2年(1357)寂、59才。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1299-1357 鎌倉-南北朝時代の僧。
正安(しょうあん)元年生まれ。日野俊光の子。真言宗。醍醐寺(だいごじ)宝池院の賢助にまなぶ。建武(けんむ)3=延元元年九州に敗走した足利尊氏に光厳(こうごん)上皇の院宣(いんぜん)をつたえる。尊氏の帰依(きえ)をうけて醍醐寺座主(ざす),東寺長者,根来寺(ねごろじ)座主をつとめる。新三宝院をたて,将軍門跡(もんぜき)とよばれる。連歌作者,歌人としても知られた。延文2=正平(しょうへい)12年閏(うるう)7月16日死去。59歳。日記に「賢俊僧正日記」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

没年:延文2/正平12.7.16(1357.8.2)
生年:正安1(1299)
南北朝時代の真言宗の僧。武家の護持僧となり醍醐教団全盛を現出した。日野俊光の子。賢助から伝法灌頂を受け,三宝院21世となる。後醍醐天皇の護持僧だった文観を,足利尊氏と結び追放。建武3/延元1(1336)年3月,醍醐寺座主となり,東寺長者,根来寺座主をも兼ねて真言教団の頂点に立つ。また同寺内部の南朝支持派の寺領を収して三宝院に統合し,座主職を同院の独占とした。室町前期の同寺黄金時代は,時勢を見抜いた賢俊のしたたかな政治力が大きい。卓抜な連歌作者,歌人でもあった。<参考文献>橋本初子「三宝院賢俊僧正日記」(醍醐寺文化研究所『研究紀要』12号)

(正木晃)

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世界大百科事典 第2版の解説

1299‐1357(正安1‐正平12∥延文2)
鎌倉末~南北朝初期の僧侶。第65代醍醐寺座主,菩提寺僧正と号す。権大納言日野俊光の子で,三宝院賢助を師として出家。醍醐寺内は持明院・大覚寺両統と結ぶ2派の抗争がつづくが,持明院統親密の日野家の出である賢俊は一貫して持明院統側に立ち,とくに後醍醐天皇のをうけて権勢を振るった文観(もんかん)(弘真)と激しく一山の主導権を争った。1336年(建武3),京都周辺の戦いに敗れ西走する足利尊氏に光厳上皇の院宣授与を仲介し,以後行動を共にする。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]正安1(1299)
[没]正平12=延文2(1357).閏7.16. 京都
南北朝時代の真言僧。延元1=建武3 (1336) 年備後のに在陣中の足利尊氏に光厳上皇の院宣を持参し,京都復帰の足掛りをつくったことにより,室町幕府から重用された。同年醍醐寺座主,興国1=暦応3 (40) 年東寺一長者となる。

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精選版 日本国語大辞典の解説

〙 賢くすぐれていること。また、その人。
経国集(827)二〇・大日奉首名対策文「所以聖賢深化満溢乾坤之外、賢俊茂跡浮流宇宙之間」 〔漢書‐元帝紀〕
南北朝前期の真言宗の僧。日野俊光の子。三宝院の賢助に師事。醍醐寺座主、根来寺座主、東寺長者。足利尊氏の護持僧となり、常に随身した。政治機密にも参画し、洞院公賢の日記「園太暦(えんたいりゃく)」に「栄耀至極、公家武家権勢比肩無きの人」と書かれた。醍醐寺の諸伽藍(がらん)を再建し、新三宝院を造営した。「賢俊僧正日記」がある。菩提寺大僧正。正安元~延文二年(一二九九‐一三五七

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