文観(読み)モンカン

デジタル大辞泉 「文観」の意味・読み・例文・類語

もんかん〔モンクワン〕【文観】

[1278~1357]鎌倉後期・南北朝時代真言宗の僧。別名弘真通称小野僧正後醍醐天皇帰依を受け、終始南朝興隆のために尽力。のち、失脚し甲斐に流されたが、再び中央復帰立川流の大成者ともいわれる。

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精選版 日本国語大辞典 「文観」の意味・読み・例文・類語

もんかんモンクヮン【文観】

  1. 鎌倉末期から南北朝時代の真言宗の僧。立川流の大成者という。一名、弘真。初め天台を、のち奈良に出て法相・三論を学び、醍醐寺密教を修めた。後醍醐天皇の帰信を得て、東寺長者となり大僧正に進んだが、弾劾を受けて失脚し、甲斐国(山梨県)に流された。のちにふたたび後村上天皇の勅命で中央に復帰。名僧とも妖僧ともいわれた。弘安元~正平一二年(一二七八‐一三五七

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百科事典マイペディア 「文観」の意味・わかりやすい解説

文観【もんかん】

南北朝期の真言僧。弘真(こうしん)・小野(おの)僧正とも。はじめ播磨一乗寺(現兵庫県加西市)の僧で,のち西大寺叡尊(えいぞん)とかかわり律僧になる。1316年大和竹林寺(現奈良県生駒市)長老となり,同年醍醐寺報恩院道順(どうじゅん)から伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け,真言僧ともなった。後醍醐(ごだいご)天皇の帰依を受け,元弘の乱では関東調伏(ちょうぶく)を祈祷した咎で硫黄島に流された。1333年鎌倉幕府滅亡により帰洛。以後,後醍醐天皇の信任篤く,東寺大勧進(だいかんじん)に任命され,僧正になったため小野僧正とよばれた。さらに東寺一長者(いちのちょうじゃ)・法務となり,権勢を極めた。南北朝分裂後は後醍醐天皇とともに吉野に下った。1351年の正平一統(しょうへいいっとう)により,東寺一長者に還補(げんぷ)されたが,翌年再び吉野に下り,南朝復興のため活動した。河内金剛寺(現大阪府河内長野市)で死去。なお文観は荼枳尼天(だきにてん)の修法を得意とし,その秘法のため,男女二根交会(にこんきょうかい)による即身成仏を唱える立川流(たちかわりゅう)の中興の祖とよばれた。

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朝日日本歴史人物事典 「文観」の解説

文観

没年:延文2/正平12.10.9(1357.11.21)
生年:弘安1(1278)
鎌倉末・南北朝時代の真言宗の僧,律僧。真言宗内の邪教とされる立川流の大成者といわれる。名は弘真,殊音ともいう。播磨国(兵庫県)生まれ。播磨国法華山一乗寺で天台を学んだが,西大寺末寺の播磨国北条常楽寺に学び,西大寺流律僧としての道を歩んだ。乾元1(1302)年6月,西大寺叡尊の十三回忌に文殊菩薩の図像を図絵するなど,律僧として文殊信仰を推進し,法名を文観房殊音と号したのも,文殊と観音から名付けたという。西大寺末寺の大和(奈良県)笠山竹林寺の長老となっていた正和5(1316)年4月21日,醍醐寺報恩院道順から真言密教の灌頂を受け,真言密教報恩院流の法脈にも連なった。 このころ,後醍醐天皇に接近してその護持僧となり,正中1(1324)年,後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の成就を祈念した文殊菩薩像を西大寺末寺の大和般若寺に造立した。嘉暦1(1326)年から元徳1(1329)年にかけて,後醍醐の中宮懐妊にことよせて幕府の北条高時調伏の祈祷を行い,元弘1(1331)年5月に発覚して幕府に捕らわれ,硫黄島に流された(元弘の乱)。鎌倉幕府滅亡後の正慶2/元弘3年5月に京都に帰った。建武1(1334)年に東寺大勧進・醍醐寺座主になり,翌年には東寺一長者・正法務(高野山検校・東大寺別当を兼職)になるなど,後醍醐の建武政権のもとで顕密仏教界の頂点に立った。このころの文観は,財宝を倉に積み武具を傍らに集め,数百騎の兵を輿の前後に従えて宮中に参内するなど,得意の絶頂にあった。しかし,荼吉尼天を祭った彼は,邪教立川流(男女の性的結合を密教の根本として説いた)の大成者とされて高野山衆徒などの真言教団からも非難された。南北朝の分裂とともに南朝の後醍醐と共に吉野に下って南朝興隆のための運動を行い,河内(大阪府)金剛寺で入滅している。<参考文献>守山聖真『立川邪教とその社会的背景の研究』

(細川涼一)

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改訂新版 世界大百科事典 「文観」の意味・わかりやすい解説

文観 (もんかん)
生没年:1278-1357(弘安1-正平12・延文2)

鎌倉時代の真言宗の僧で,宗内で邪説とされている立川流(たちかわりゆう)の大成者。名を弘真といい小野僧正ともいわれる。播磨国法華山一乗寺で天台を,奈良で法相,三論を学び,また算道,呪術にも通じていた。さらに醍醐寺報恩院道順より灌頂(かんぢよう)を受け真言を修める。特に伊豆の仁寛を始祖とした男女二根交会による即身成仏を唱える立川流を主唱した。後醍醐天皇の帰依を受け,醍醐寺座主,天王寺別当に補任された。1327年(嘉暦2)中宮懐妊の祈禱の折,関東調伏(ちようぶく)の秘法を修したといわれ,31年(元弘1)の元弘の変では関東調伏の祈禱のとがで日野俊基(ひのとしもと)らとともに鎌倉へ送られ,硫黄島へ流された。33年鎌倉幕府滅亡により許され,再び天王寺別当となる。以後,後醍醐天皇の信任厚く,東寺長者・法務を歴任し大僧正となり,《太平記》巻十二によれば数百騎の兵を従えて参内するほど豪勢を極めた。南北朝分裂以後,後醍醐天皇とともに吉野へ下り,42年(興国3・康永1)逆徒退治の護摩を修している。51年(正平6・観応2)足利氏の内訌から足利尊氏が一時南朝に降服したため,11月後村上天皇の命で東寺一長者に還補されたが,翌年職を辞して再び吉野に下り,南朝興隆のための運動を行う。57年10月9日河内国金剛寺大門往生院にて入滅。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文観」の意味・わかりやすい解説

文観
もんかん

[生]弘安1(1278)
[没]正平12=延文2(1357).10.9. 河内
鎌倉~南北朝時代の真言宗の僧。東寺長者,醍醐寺座主。弘真ともいう。天王寺真慶,伊豆仁寛の流れをくんで立川流を主唱し後醍醐天皇の帰依を受ける。後醍醐天皇の討幕運動に参画し,円観らとともに北条高時調伏を祈願したため,元徳3 (1331) 年鎌倉幕府の使節長崎高貞,南条高直らに日野俊基,円観とともに捕えられ,同年6月鎌倉に護送され,翌年4月遠島に処せられた。建武中興には重賞を受けて批判を浴びた。南北朝分裂後は後醍醐天皇の護持僧となり,さらに河内天野の行宮にあって南朝に仕えた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「文観」の解説

文観 もんかん

弘真(こうしん)

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世界大百科事典(旧版)内の文観の言及

【硫黄島】より

…この平家落人伝説は1773年(安永2)薩摩藩へ提出された《平家没落由来記》以後知られることとなった。1331年(元弘1)北条氏調伏の罪で文観が本島へ配流され,4年後赦免された(《太平記》)。【三木 靖】。…

【元弘の乱】より

…また天皇による祈願寺の設定も討幕計画の成就を祈念したものとされる。しかし31年4月この企ても天皇の身の安泰を憂慮した重臣吉田定房の通報するところとなり,幕府の使者長崎高貞,南条高直は六波羅探題を指揮して直ちに首謀者の逮捕を開始して,日野俊基・文観・円観・仲円・智教・遊雅を検挙した。このとき幕府の追及は直接天皇におよばなかったが,同年8月天皇と数人の公卿が突如宮廷を脱出,山城の笠置城にたてこもった。…

【立川流】より

…仁寛は女犯によって伊豆に流されたが,同じころ,真言勧修寺流を受けた四天王寺の別当真慶(しんぎよう)も盛んに女犯の是認を説いた。鎌倉末期,後醍醐天皇の護持僧文観(もんかん)は真慶の印信書籍を筆写し,仁寛秘法の印契を会得して立川流を大成,秘法を天皇に伝えて寵を得たというが,その真否は定かでない。だが,中世の天台・真言両宗では清僧は少なく,女犯や男色が僧侶のなかで盛んだった。…

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