ウマのひづめを保護するために用いられる金属製具。鉄製のものが多いが,競走馬がレースのときにのみ装着するアルミニウム製の軽い蹄鉄もある。形はいわゆる馬蹄形で,前方を鉄頭,両側の部分を鉄側と呼び,最後部を鉄尾と呼ぶ。鉄頭やときには鉄側にも鉄唇という上部へ突出した部分があって蹄壁を包む。前肢と後肢ではひづめの形が違うので,蹄鉄もこれに合わせて異なっている。前肢の蹄鉄は丸みを帯びているが,後肢のものは卵形をしている。標準の大きさは厚さ10mm,重さ300gで,これを5~6本の釘で蹄壁の底に打ちつける。特殊な蹄鉄として,滑り止めのついた氷上蹄鉄,肢蹄の疾病治療のための変形蹄鉄がある。いずれの場合も,装蹄の作業はすべて装蹄師の資格をもった者が行わなければならない。
執筆者:正田 陽一
中世ヨーロッパで馬匹の利用法に一連の変化が生じ,いわば馬の力が再発見された。これは戦術と農耕に変革をもたらし,やがて社会的変動に連動していった。その契機となったのは,まずあぶみ(当然,鞍(くら)の使用を前提とする),次いで蹄鉄の使用,最後に繫駕法(けいがほう)の改良である。ローマ時代,馬に履物をはかせひもで足に結びつけるソレアsoleaは知られていたが,これは儀式用の装飾,あるいはひづめを痛めた場合の治療用であって,鉄釘で直接打ちつける蹄鉄とは異なる。あぶみも蹄鉄もゲルマンの民族移動とそれに続く時期に,遊牧民族との接触ないし戦闘を通じて東方から伝来した。ただし,その年代については論議がある。あぶみが図像に初めて出現するのは9世紀半ば過ぎである。考古学的には,7世紀末から8世紀末までの武人の墓に副葬された乗馬の発掘では,あぶみの出土例は必ずしも多くないので,8世紀に比較的緩慢に普及したと考えられる。
これに対し蹄鉄の文献初出は,ビザンティン帝国で8世紀末ないし9世紀初め,西欧では9世紀の90年代である。873年冬,アキテーヌで泥土が凍結したため軍馬が足を傷め,進軍できなくなったという記録がある。このときにはまだ蹄鉄は装着されていなかったと考えられる。考古学的にはイギリスのドーセットのメードゥン・カスル遺跡(4世紀)とドイツのシュトゥットガルトのファールハイム第1号墓址(7世紀)の2件が報告されているが,前者は層位判定に問題があるとされ,後者は1個しか発見されないことに疑問が抱かれている。カルナバレ美術館(パリ)のカール大帝騎乗像(9世紀初め)には蹄鉄が見られるが,問題の個所は16世紀に補修されている。10世紀後半には,旅に出る用意に蹄鉄をつける旨の記事があるし,11世紀前半には身分を誇示するため銀の釘で蹄鉄を打ちつけたトスカナ逸話が知られる。同世紀半ば,イギリスのハートフォードの鍛冶屋6名は年120個の蹄鉄を王税として納付している。要するに,蹄鉄伝来の年代には不明な部分が多いが,10世紀が普及の時期で,11世紀には一般化が完了しているとみてよい。
馬はひづめが最大の弱点で,とくに湿気によって損傷しやすいが,蹄鉄装着によって利用効率が格段に向上した。先にあぶみの採用によって初めて騎手が馬上に固定され,長槍を構える突撃衝突戦が可能になったのだが,蹄鉄の普及によって騎兵の安定した用兵が可能となる。1066年ノルマン騎馬軍がアングロ・サクソンの伝統的な歩兵軍をじゅうりんしたヘースティングズの戦は,騎兵の主力としての優位を確立した事件であった。これは騎兵たりうる者のみが完全戦闘員の地位を独占したことを意味し,封建社会完成の一因となった。他方,蹄鉄の普及と繫駕法の改良の結果,一部に馬耕が導入される。金属製の刃先を備えた大型の重いすき(犂),いわゆる有輪すきの展開と結びついて,11世紀から13世紀にかけての農業の飛躍的な発展を促し,ヨーロッパの北半に三圃(さんぽ)制耕法による先進地帯をつくり出す一因となった。
執筆者:渡邊 昌美 通常,蹄鉄は優秀な製鉄技術を有するユーラシア北方の騎馬民族によって発明されたと考えられているが,はっきりした年代や発祥地はわからない。アジアで最も古い蹄鉄の出土遺物は,エニセイ川流域の遊牧騎馬民族の墳墓から発見されたもので,その年代は9~10世紀ころとされている。歴史家は,これより以前の前3世紀に勃興したパルティアにおいて,重装騎兵が乗る鎧馬(がいば)に蹄鉄が打たれていたと推定している。重装備の鎧馬は荷重からひづめを保護しなければならなかった関係上,蹄鉄を打たれていた可能性は十分認められる。この重装騎兵は後に東西の諸民族に大きな影響を及ぼし,高句麗も中央アジア経由でこの鎧馬を導入しているから,当然装蹄技術も東アジアに伝播(でんぱ)したと考えられる。しかし,中央アジアおよび北アジアの遊牧民の間に蹄鉄が広く知られるようになるのは,早く見積もっても12世紀以降で,それも全面的に普及するまでには至らなかった。
南宋の彭大雅(ほうたいが)はそのモンゴル見聞記《黒韃事略(こくたつじりやく)》(1237)中で,モンゴル人はひづめが損耗して薄くなり砂磧地帯の走行に向かない馬には,鉄もしくは板でこしらえた〈脚渋〉を装着すると報告しており,モンゴルの大半の馬が装蹄していなかったことをうかがわせる。脚渋は唐代以後の記録に蹄渋,木渋とも見え,中央アジアの砂漠地帯で発達した装蹄法で,古くはもっぱら木製であった。五代後晋の廷臣高居誨(こうきよかい)の《于闐(うてん)国行程録》(942ころ)にその装着法が記されており,ひづめに穴をあけ,ひもでつづる一種の馬沓(うまぐつ)であったことが判明する。
装蹄技術については,西アジアでムハンマド・ブン・ムハンマドが《馬の書》(15世紀以後成立)を著し,ある程度解説を加えているが,東アジアではヨーロッパ人が装蹄技術を伝えるまでは本格的な蹄鉄は普及しなかった。ただ例外的に李氏朝鮮下で尹弼商(いんひつしよう)なる者が代葛(だいかつ)と称する氷上蹄鉄(鉄臍(てつさい)蹄鉄)を発明し,行軍に役だてている。日本の伝統的な装蹄は,わら,和紙,馬毛,人毛などでこしらえた馬沓が主で,脱落しやすいのが一大欠点であった。8代将軍徳川吉宗は馬政改革にきわめて熱心で,1729年(享保14)オランダ商館を通して洋馬を輸入するとともに,西洋の新しい装蹄技術の導入に努めた。このとき技術指導にあたったのがハンス・ユンゲル・ケイゼルというオランダ人で,彼は馬の飼育法のみならず,通常および特殊蹄鉄の装着法まで教授した。しかし,吉宗の努力にもかかわらず,洋式蹄鉄は日本に定着しなかった。
幕末のペリー来航以後,イギリス,フランス,ロシアの使節があいついで至るにおよび,幕府の騎兵隊付属馬医桑島道男は横浜のアメリカ人より,また江戸高輪(たかなわ)の火消し浅見浅吉はイギリス人より,それぞれ蹄鉄技術を学び普及に努めた。その後1872年(明治5)新政府はフランスより下士官ビューストを陸軍兵学寮に招聘(しようへい)し,フランス式装蹄法を教授させ,ここに日本は初めて組織的に洋式装蹄技術を学ぶことになったのである。
執筆者:渡部 武 なお蹄鉄の廃物は,柱に打ちつけて物を引っ掛けるのに利用しただけでなく,家の門口に打ちつけて魔よけのまじないともした。さらに拾った蹄鉄には災いの祓除(ふつじよ)と幸運を呼びよせる力があると観念された。中国の馬蹄銀やギョーザにみられるように,馬蹄の形は吉祥のしるしでもあった。蹄鉄をめぐるこれらの民俗は,世界に広く分布する。
執筆者:須山 努
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ウマのひづめの底につける鉄製の輪で、ひづめの保護をするもの。人類は蹄鉄の発明によって、乗用、荷用、車用としてウマをよく利用できるようになり、経済や文化を著しく進展させることができた。蹄鉄がいつどこで発明されたかについては不明である。蹄鉄が発明される前は、藁(わら)、布、皮、毛皮などでひづめを保護していた。ローマ人は鉄製のヒポサンダル(馬靴)を用いていた。馬蹄に釘(くぎ)で取り付けた蹄鉄の出現の時期を紀元前後のケルト人によるとする説と、10世紀前後であるとする説がある。
蹄鉄には普通の蹄鉄と氷上蹄鉄があり、現在の競馬用蹄鉄はアルミニウム製である。蹄鉄の形は、前肢用は円形に近く、後肢用はやや楕円(だえん)形になっている。蹄鉄は鉄頭、鉄側、鉄尾の三部に区分される。釘孔(あな)は鉄側にある。釘は蹄の底面の白帯(白線)の外側の蹄底縁(蹄負縁)に打ち込む。
日本では、蹄鉄は、安土(あづち)桃山時代に渡来したポルトガル人や江戸時代のオランダ人を通して知られていた。しかし、江戸末期まで蹄鉄はほとんど用いられず、主として馬沓(うまくつ)(馬草鞋(わらじ))が用いられていた。馬沓は、藁のほかに、女性の髪毛、馬の尾の毛、クジラのひげ、シュロの皮などでもつくられた。江戸中期、将軍徳川吉宗(よしむね)の時代のオランダ馬術紹介の記録には蹄鉄のことを「金沓(かなぐつ)」と訳してある。江戸末期には「蹄鉄」という文字が出現している。
[松尾信一]
『加茂儀一著『騎行・車行の歴史』(1980・法政大学出版局)』▽『日本乗馬協会編『日本馬術史 第四巻』(1940・大日本騎道会/1980・原書房)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…青銅器時代のハンガリーの遺跡からは,くつわが出土しているが,初期は革ぐつわをかませていたに違いない。馬具としてはあぶみや蹄鉄も重要なものであるが,その出現にはなお多くの時間を要した。前9世紀後半,アッシリアのシャルマネセル3世時代の騎兵は裸馬に乗り,あぶみもなく,足で馬の腹部を締めつけて走っていた。…
…ウマのひづめに蹄鉄を装着すること。よく使役するウマはひづめの磨滅が成長を上回るのでひづめの磨滅を防ぐために蹄鉄をつける。…
…突出したもの,角あるものは土地の生産力を絶やさぬ力をもつと同時に,外敵の侵入を許さぬ防御の役も果たし,土地を囲う柵や門には角やウニのとげを飾る風習が生じた。これは後に,角に代わって蹄鉄を飾る風習へ変化している。生産力や豊穣あるいは力を体現する神には角を有する例が多く,エジプトのイシスやハトホルは牛の角と日輪を頂く姿,ギリシアのパンやサテュロスも角をもつ姿で表される。…
※「蹄鉄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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