改訂新版 世界大百科事典 「軍事教育制度」の意味・わかりやすい解説
軍事教育制度 (ぐんじきょういくせいど)
軍隊における教育制度(軍事教育制度)の中核をなすものは正規将校の教育制度である。その制度と教育内容は一国の国防政策と世相を反映しており,単に軍隊内にとどまらず広く社会に影響を与えている。正規将校要員の養成機関としては,陸海空軍に各士官学校を,初級・中級将校の用兵および術科教育機関として陸海空軍の各職種別に各種の術科学校を,上級将校に高度の戦略・戦術を習得させるため陸海空軍に各大学校を置き,さらに国防政策の研修機関として三軍統合の国防大学校などを設置している国が多い。
日本の将校教育制度
旧日本陸軍は1868年(明治1)陸軍の幹部養成のため兵学校を京都に設置して以降,陸軍幼年学校,陸軍士官学校,陸軍経理学校,航空士官学校,陸軍大学校などを設置した。一方,旧日本海軍は69年東京築地に海軍操練所を設置して初級幹部の養成を開始して以降,海軍兵学校,海軍機関学校,海軍経理学校,海軍大学校などを設置した。
自衛隊
幹部要員の養成機関として防衛大学校と防衛医科大学校および3自衛隊に各幹部候補生学校がある。初級・中級幹部の職種に応ずる部隊運用と専門術科教育のため3自衛隊に各種術科学校が,上級の指揮官幕僚養成のため3自衛隊に幹部学校が,上級幹部に対する3自衛隊の統合運用の教育のため統合幕僚学校が,さらに自衛隊と各省庁の高級幹部に対し,国防に関する広範な基礎的知識を習得させるため防衛研修所がある。
防衛大学校は元の陸軍士官学校,海軍兵学校および航空士官学校を合併したものに相当する。1952年保安大学校として発足,54年防衛大学校と改称,55年現在の横須賀に移転した。文部省の大学設置基準に準拠した4年制で,高等学校卒業の志願者から一般公募によって選抜試験のうえ採用,2年生から陸海空別に分かれ,幹部自衛官として必要な基礎的教育を実施している(なお,三軍統合の士官学校をもつ国はきわめて少ない)。防衛大学校卒業後,陸上は久留米,海上は江田島,航空は奈良の各幹部候補生学校で初級幹部として職務遂行上に必要な知識・技能の教育を受け,卒業と同時に各自衛隊の三尉に任官する。
日本の将校教育制度の役割
軍人遺族と子弟教育
陸軍士官学校および海軍兵学校ともに,創設期は各藩推薦の官吏の子息が選抜され,とくに陸軍幼年学校は戦死した陸軍軍人の遺児救済のために毎年50~100名を採用し,海軍兵学校予科も海軍軍人の遺児教育がおもな目的であった。1888年陸海軍将校教育制度確立の際,陸軍は若年から将校教育の必要があるとして陸軍幼年学校を存続,海軍は遺児教育の必要がなくなったとして海軍兵学校の予科を廃止した。陸軍は日清戦争後,戦死者の遺児救済のため96年幼年学校を地方に五つ増設し,97年幼年学校第1期生入校時に戦死者遺児の納金は免除し,陸海軍士官の子息は納金半額という制度を採用した。1922年軍縮のため中央幼年学校の廃止が問われたとき,陸軍は若年からの軍人精神の育成と軍人遺児の優遇ならびに中学校で行われてない外国語教育の必要性を主張して,陸軍幼年学校を存続させた。
皇華族
明治天皇は皇華族の軍人志望を推進した。1873年に太政官から通達が出され皇華族の将校養成機関への入校が本格化した。84年皇華族の本科入校前の予備教育のため陸軍士官学校に付属の予科を設置,1915年中央幼年学校に皇族舎を設置,終戦まで皇華族の入校は続いた。しかし華族の入校は大正時代から減少した。
一般国民
1895年日清戦争以降,陸軍士官学校は約700名,海軍兵学校は約150名と日清戦争前の3倍の生徒を採用したが,これは当時の高等学校,専門学校などへの進学者約2200名の約38%に相当する。1937年日中戦争以降,生徒採用員数は逐年増え,43年陸軍士官学校は2800名(59期),海軍兵学校は1000名(74期)を採用している(当時の高等学校などへの進学者は約6000名)。とくに海軍兵学校と機関学校では船乗りとしての教育も行われ,卒業後の海上経歴と階級に応じて甲種の海技免状が取得できた。
留学生
1883年に陸軍幼年学校に朝鮮の留学生を受け入れてから,陸軍士官学校にも,中国,シャム(タイ),ビルマ(ミャンマー),フィリピンなどから外国人留学生を受け入れ,政府の国策推進の一環として友好親善増進の一端を担った。しかし海軍兵学校には外国人留学生は受け入れなかった。
諸外国の士官教育制度の特色
アメリカ
正規将校養成のため,陸軍士官学校を1802年ウェスト・ポイントに,海軍兵学校を45年アナポリスに,空軍士官学校を1954年コロラド・スプリングズに開設した。各学校とも17~22歳入校の4年制で,志願者は大統領・副大統領または上下両院議員あるいは各軍長官などの推薦を必要とする。卒業と同時に陸海軍は理学士の学位,空軍は航空士の資格が授与され,各軍の少尉に任官して卒業後5年間は除隊できない。76年から陸海空軍とも女子の入学を認めた。上級の指揮官・幕僚養成のため,陸海空三軍に各軍大学が,陸空軍と海兵隊には指揮幕僚大学がある。さらに統合幕僚大学,軍産業大学および国防大学が設置されていたが,81年国防総合大学に統合され,国防総省,国務省および政府機関の要員に対し,国家戦略,国家安全保障のための資源管理,政策の立案および指揮幕僚業務などについて教育している。
旧ソ連
陸軍と海軍にのみ幼年学校があり,スボロフ陸軍幼年学校は1943年創設され,80年代初めに8校あって,当初は陸軍英雄の遺児を優先採用したが,その後は将校と党高官の子弟が大半を占め,政治教育を重視してきた。士官学校は各軍種と兵科ごとにあって,81年現在陸軍67,海軍10,空軍27,戦略ロケット軍4,防空軍12,政治関係11,総計131校あった。軍大学も軍種と兵科ごとに設置され,佐官級に2~3年間指揮官・幕僚教育をしており,将官への昇進の条件ともなっていた。なかでもモスクワのフルンゼ陸軍大学は,1918年レーニンの指示で設立され,ソ連軍の統合教育の最高学府として有名で,80年代初めに3学年約400名に対して戦術教育をしており,各兵科の戦闘と軍の作戦を研究する学術的中枢であった。また参謀本部大学はソ連軍最高の教育機関で,とくに大佐から中将までの高級将校のほかに,社会主義諸国の将官級も受け入れて,主として戦略教育をしていた。
イギリス
海軍士官教育は伝統的に艦上教育を原則としたため,本格的に陸上で士官教育が行われるようになったのは20世紀に入ってからである。古くは,軍艦の艦長が縁故者を自艦に乗艦させ訓練を行った。その後特定の軍艦上で士官教育を行うようになり,その選抜方法も試験制へと変化したが,列強が陸上で士官教育を始めたにもかかわらず,イギリスは1905年ダートマスに建てられた校舎に移るまで,艦上で教育を続けた。
スイス
民兵制度であるため常備軍制の軍事教育制度とまったく異なり,当初から士官要員養成を目的とした学校はない。士官となるには一般の兵役義務者と同様に新兵教育の学校を経て,志願者の中から適任者が選抜され,士官学校で所定の教育を受けて任官する。任官後,とくに上級将校養成のため陸空軍統合の中央学校が,幕僚養成のため軍事省幕僚部に幕僚教育課程が設置されている。
執筆者:田尻 正司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報