共同通信ニュース用語解説 「ミャンマー」の解説
ミャンマー
旧国名はビルマ。2023年の推定人口は約5457万人。首都はネピドー。1988年のクーデターで軍事政権樹立。2010年に20年ぶりの総選挙が実施され11年に民政移管。15年総選挙でアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、16年にNLD主導の新政権が発足。21年2月1日、国軍がクーデターで実権を掌握した。(共同)
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旧国名はビルマ。2023年の推定人口は約5457万人。首都はネピドー。1988年のクーデターで軍事政権樹立。2010年に20年ぶりの総選挙が実施され11年に民政移管。15年総選挙でアウンサンスーチー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝し、16年にNLD主導の新政権が発足。21年2月1日、国軍がクーデターで実権を掌握した。(共同)
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東南アジアの西端にある国。正称はミャンマー連邦共和国Republic of the Union of Myanmar。旧称は1948年の独立から1974年までビルマBurma連邦、1974年から1988年までビルマ連邦社会主義共和国。1988年クーデターにより政権を掌握した軍事政権は国名をビルマ連邦に戻したが、翌1989年ミャンマー連邦に改称、同時に首都ラングーンもヤンゴンに改称した。さらに2006年10月、首都をヤンゴンから同国中部の都市ネピドーNay Pyi Taw(Naypyidaw)へ変更した。2011年3月、新政府が発足し、それに伴い国名はミャンマー連邦共和国に変更された。東から北にかけてタイ、ラオス、中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接し、南西はベンガル湾に面する。面積67万6577平方キロメートル、人口4879万8000(2007推定)、5148万6253(2014センサス)。
[酒井敏明]
国土の躯幹(くかん)部は、北緯16度から28度まで南北約1400キロメートル、東経92度から101度まで東西約900キロメートルの縦に長い菱形(ひしがた)である。南東辺から細長いタニンタリー(旧、テナセリム)地区が約800キロメートル南へ延びて北緯10度に達する。全体の輪郭は凧(たこ)が尾を垂らした姿にたとえられる。大まかな地質構造および地形は、生成時代が古いシャン高原を中心とする東部山地、第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈が弧を描いて連続する西部山地、両者の中間に横たわる中央低地の三つの部分からなる。
イラワディ(エーヤワディー)川の源流域を取り囲む最北部のカチン山地は大ヒマラヤ山系の東方への延長部にあたり、北端に位置する東南アジア最高峰のカカボラジ山(5885メートル)をはじめ、万年雪が覆い氷河のある高山群が森林限界を越えて高くそびえる。このカチン山地から東西2系列の山脈が南へ馬蹄形(ばていけい)に延びる。東側のカオリクン山脈はイラワディ川、サルウィン川流域の分水嶺(ぶんすいれい)であり、中国との国境となっている。東部山地の主要部を占めるシャン高原は中国の雲貴(うんき)高原の一部であり、おもに結晶岩と石灰岩からなる高度900~1200メートルの台地である。標高2000メートルに達する山稜(さんりょう)がその上にそびえ、サルウィン川とその支流、イラワディ川支流の多くの河道が台地面に紐(ひも)状の狭い低地を刻んでいる。
西部山地は北から順にパトカイ山脈、ナガ丘陵、チン丘陵、アラカン山脈が続き、標高2000メートル前後の褶曲(しゅうきょく)山脈からできている。イラワディ川の支流およびベンガル湾に注ぐ諸河川が、樹枝状または格子状の複雑な谷を刻む。アラカン山脈の南端はネグレス岬で海に没するが、インド領のアンダマン諸島、ニコバル諸島はこの西部山地の延長とみなされている。
中央低地は南北約1100キロメートル、幅約200キロメートルの大平野であり、イラワディ川とその第一の支流チンドウィン川がともに緩やかに流れ、莫大(ばくだい)な水量を運ぶ。河口には延長250キロメートル、底辺200キロメートルのデルタを形成し、排出される土砂によって海岸線は毎年数十メートル進出する。ペグー山脈を挟んで東側を並行して流れるシッタン川は、マルタバン湾に大きな三角江を開く。
一方、シャン高原中央部を南流するサルウィン川はマルタバン湾に注ぐ河口に、ジャイン川、アタラン川とともにデルタを形成している。南へ延びるタニンタリー地区は背後にダウナ山脈、ビラウ山脈など、タイ領のチャオプラヤー川流域との分水嶺をなす低い山脈が走るため、一般に山がちで平野は狭い。タニンタリー南部沖合いには、大小800の島々がほぼ3列をなして南北に並ぶメルギー諸島がある。北部のアラカン海岸にはチン丘陵から流れるカラダン川、レムロ川河口に平野が広がるが、ほかに平地は少なく、リアス海岸の沖にラムレー島、チェドゥバ島などの島々がある。
国土の大部分が亜熱帯に位置し、夏の季節風が発達するベンガル湾に臨むため、典型的な熱帯季節風気候が支配的である。一年中続く高温と夏に集中する大量の雨がその特徴である。最北部山地とシャン高原では気候は温帯的であり、冬には雪や霜をみる。イラワディ川中流平野はアラカン山脈が夏の季節風を遮るために雨が少なく、乾燥に耐える樹種の叢林(そうりん)が点綴(てんてい)するサバナ的景観を示す。山地が背後に迫るアラカン、タニンタリー地区の海岸地帯では年降水量は5000ミリメートルに近く、その80%が6月から9月までに降る。イラワディ・デルタで2000~2500ミリメートル、海から遠いシャン高原で1200ミリメートル程度である。イラワディ川中流域は800ミリメートル以下、最小620ミリメートルの場所もあり、気温が高いので降水量の少ない地域は乾燥が厳しい。イラワディ・デルタにある都市ヤンゴンの年間平均気温は27.4℃で、最高気温は4月の30.9℃。年降水量は2261.7ミリメートルで5月から10月にかけてが雨期となっている。
乾期に落葉する雨緑林に生えるチーク、ピンカド(インドテツボク)などの堅木は用材として重要であり、タケは種類が豊富で多様に利用される。海岸線はマングローブ林に縁どられる所が多い。野生動物は種類が多く、人里遠く離れた森林には、ゾウ、トラ、ヒョウ、ヤギュウ、シカ、クマ、ヤマネコ、サル、サイなどが生息している。鳥、昆虫、爬虫(はちゅう)類も各種いる。毒蛇による被害は後を絶たず、長さ170センチメートルに達するダボアイやキングコブラは猛毒で恐れられている。
[酒井敏明]
自然地理的には東部山地、中央低地、西部山地に3区分され、歴史的、文化的にはイラワディ川中流平野を中心とする内陸部を上ビルマ、イラワディ・デルタや沿岸地方をあわせて下ビルマとよぶが、ここでは以下の9地域に分けて簡潔に述べる。
(1)アラカン海岸地域 ベンガル湾に面する細長いこの地域はチン丘陵とアラカン山脈によってほかの地域から分離されている。年降水量は夏に集中してきわめて多く、カラダン川、レムロ川の下流平野は水田化されている。アラカン王国の故地としてイラワディ川流域とは異なる歴史をもち、西のベンガル地方との交渉が長かった。アラカン方言が話され、イスラム教信徒も多い。
(2)西部丘陵地域 チン丘陵とアラカン山脈からなる山岳丘陵地域であり、森林が覆っている。断続する山脈、曲折する河谷によって多くの地区に分かれる。移動耕作や谷間で米作を行うチン人がおもに居住する。
(3)北部地域 亜熱帯・温帯森林が茂るカチン山地やパトカイ山脈などの高地と、イラワディ川上流およびチンドウィン川がつくる沖積平野とからなる。低地を占居するのは水稲耕作を行うビルマ人、シャン人であるが、山地にはカチン人、リス人、ナガ人などが半閉鎖的な部族社会をつくっている。
(4)中部乾燥地域 イラワディ川中流域の低地からなる。高温であり、湿潤な季節風は山に遮られて吹き込まないので、夏は乾燥が激しい。溜池灌漑(ためいけかんがい)に基づく古くからの米作地であり、伝統的ビルマ文化の故郷である。パガン、アバ、マンダレーなど、古跡や仏教文化遺産が多い。原油、石炭の埋蔵地がある。
(5)イラワディ川下流平野地域 低湿な原始林は19世紀後半から農業開発の舞台となり、輸出向け米作地帯に変貌(へんぼう)した。イラワディ・デルタには一望千里の水田が広がり、水路が四通八達する。移住定着した人口と輸出貿易の発達により、雑多な民族、人種が混住する先進的経済地域となった。ヤンゴン(ラングーン)、パテイン(バセイン)、プロームなど都市が多い。
(6)シッタン川下流平野地域 米とサトウキビを主作物とする農業が盛んである。歴史の古いバゴー(旧、ペグー)、タトン、タウングーなどの都市がある。
(7)ペグー山脈地域 森林に覆われる低山地域で、少数のビルマ人とカレン人が住む。チーク材の産出がある。
(8)シャン高原地域 600~800メートルの河谷と盆地にはシャン人、交通不便な山奥にカレン人、ワ人、パラウン人などが住む。米作、養蚕、茶、果樹、ウシと水牛の飼養で知られる。チーク材、ボードウィンとマウチの鉱産があり、サルウィン川水系は包蔵水力が大きい。
(9)タニンタリー(旧、テナセリム)地域 山地が海に迫って全般的に平野は少ないが、モールメインを中心とするサルウィン川デルタは米作地であり、ココヤシやゴムも栽培する。錫(すず)、タングステンは各地に産する。北部の平野にはモン人が集中して居住し、メルギー諸島のモーケン人は半漂泊的漁労民である。
[酒井敏明]
10世紀以前については十分解明されていない。紀元後数世紀にオーストロネシア系のモン人がシッタン川河口地方に、チベット・ビルマ系のピュー人がイラワディ川中流域地方に定着し、水稲耕作に基づく社会を発展させ、小王国を建てる段階に入っていた。バラモン教や仏教などインド的な文化が強い影響を与えていたようである。
ビルマ人は中国西部内陸から南下し、イラワディ川中流域に進出してその地のピュー人を同化、吸収し、849年にパガンに首都を建設したという。アノーヤター王(在位1044~1077)のときに下ビルマのモン人を滅ぼし、国家の制度を整えた。このパガン朝歴代の王は仏教への尊崇の念厚く、寺院やパゴダ(仏塔)を盛んに建設した。パガン王国が元(げん)朝フビライの遠征軍によって攻撃され(1287)弱体化したあと、ビルマ、シャン、モンの各民族が対立抗争を繰り返す分裂時代が続いたが、タウングー朝が成立して16世紀中ごろに領土を拡大するなど勢力を伸ばした。しかし1752年にモン人がこれを滅ぼした。
その後1757年にアラウンパヤーAlaungpaya(1714―1760)王が上ビルマと下ビルマを統一し、最後のビルマ人の王国コンバウン朝を建てた。ポルトガルやフランスの登場の後を受け、インドの支配者イギリスはビルマ王国に三度侵攻軍を送り、1885年にこれを滅ぼし、翌1886年インドに併合するという形で植民地にした。
ビルマ人の反イギリス独立運動は第一次世界大戦中に始まり、世界大恐慌以後、若い知識層の間に広まった。ビルマは第二次世界大戦中日本軍に占領されたが、各政治勢力は大同団結して反ファシスト人民自由連盟を結成、反攻してきたイギリス・インド軍と協力して日本軍を撃退した。戦後ビルマはイギリスとの間に独立協定を締結、1948年1月4日ビルマ連邦として独立した。
独立交渉の立役者アウンサンが独立直前に暗殺され、独立後政党間や民族集団どうしの対立抗争が激しくなり、国内各地に反政府武装集団が割拠して内戦に突入した。政治・経済情勢が混乱するなか、1962年3月軍総司令官ネ・ウィンがクーデターによって政権を掌握した。憲法は停止され、国会は解散し革命評議会が組織された。ビルマ式社会主義を標榜(ひょうぼう)するネ・ウィンはビルマ社会主義計画党を結成、政治・経済的には鎖国主義をとり、国内治安の確保と産業の国有化を骨子とする社会主義化が進められた。しかし内戦は継続し、流通機構の混乱、農工業生産の停滞、インフレーションの進行により、長期にわたり国民生活は低水準にとどまった。
国内がようやく安定に向かうと、ネ・ウィン軍事政権はしだいに国際社会へ復帰する方向に転じ、段階的に民政へ移行することになった。1973年12月新憲法草案が国民投票において圧倒的多数で支持され、1974年1月と2月に中央と地方の議員選挙が行われた。一院制人民議会が成立し、ネ・ウィンが大統領に就任した。1981年11月ネ・ウィンは党議長の座だけを握り、サン・ユSan Yu(1918―1996)が大統領を継いだ。1988年9月国防相ソウ・マウンSaw Maung(1928―1997)将軍が率いる国軍が権力を掌握、国家法秩序回復評議会(SLORC=State Law and Order Restoration Council)を設立して、議長に就任した。国内にはなお反政府勢力をかかえている。
[酒井敏明]
1990年5月に総選挙が行われ、アウンサンの娘で1989年7月から政府により自宅軟禁下にあったアウンサンスーチーが率いる国民民主連盟(NLD=National League for Democracy)が、人民議会の485議席中392を獲得して圧倒的な勝利を得たが、政府は民政への移行を拒み、民主勢力の弾圧を続けた。1992年ソウ議長は病気を理由に辞任し、タン・シュエThan Shwe(1933― )将軍が議長に就任し、首相兼国防相として、政府を指導。政府は民意を無視して新憲法の制定準備作業を進め、国民民主連盟は対決姿勢を強めていった。1995年7月、軍事政権はアウンサンスーチーの自宅軟禁を解除したが、政権とNLDの対話は成立しなかった。1996年にはヤンゴンで反政府の大規模学生デモが起こる。1997年、国家法秩序回復評議会は国家平和開発評議会(SPDC=State Peace and Development Council)へと改組された。同年タン・シュエは首相、国防相、国軍司令官を兼任したままSPDC議長に就任、その後2003年に首相を退いたが(国防省・国軍司令官はそのまま兼任)、事実上の国家元首であった。
2000年9月アウンサンスーチーはふたたび自宅軟禁下におかれるが、2002年1月にタン・シュエと会談、同年5月軟禁を解かれる。しかし、2003年5月には軍政府当局がアウンサンスーチーとNLD幹部を拘束、同年9月以降、彼女は3回目の自宅軟禁下におかれる。2004年5月、軍事政権は約8年ぶりに国民会議を招集したが、国民会議に立法権はなく、事実上は軍事独裁政権であった。
2005年11月ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからマンダレー管区のピンマナに移転すると発表。2006年10月ごろに移転を終了し、移転先はネピドー市と命名された。地方行政は7管区(サガイン、マンダレー、タニンタリー、マグウェ、ヤンゴン〈ラングーン〉、バゴー、イラワディ〈エーヤワディ〉)と、7少数民族自治州(カチン、カレン〈カイン〉、シャン、カヤー、モン、ラキン、チン)からなる。
2007年8月、ガソリンなど燃料価格の大幅引上げをきっかけに反政府デモが発生、僧侶(そうりょ)、市民を中心に全国規模に広がった。9月にはヤンゴンで10万人規模のデモが行われるようになった。軍政府は武力によって鎮圧を強行、デモ参加者に多くの死傷者を出し、また取材中の日本人ジャーナリストも1名死亡した。国連人権理事会特別報告官の報告書(2007年12月)では死亡者数31、行方不明者数74とされている。
2008年2月、軍政府は新憲法承認のための国民投票を同年5月に行うこと、総選挙を2010年中に行うことを発表。2008年5月の国民投票では新憲法が92.4%(軍政府発表)の賛成票を得て承認されたが、国民投票はサイクロンによる甚大な被害を受け、国内が混乱した状況下で強行された。この新憲法は連邦議会議員の4分の1を軍人とするほか、自身や両親、配偶者、子供が外国人であったり外国の市民権をもっている者は国家元首となれない等、アウンサンスーチーが排除され、軍の権力が維持される内容であった。2010年11月、総選挙を実施。2011年、大統領テイン・セインThein Sein(1945― )による新政府が発足し、国家平和開発評議会(SPDC)から政権が委譲された。2012年4月に行われた上下両院および地方議会補欠選挙では、軟禁を解かれたアウンサンスーチーが初めて選挙に参加して下院議員に当選している。
外交は長く非同盟、中立を基本とし、鎖国に等しい閉鎖的な政策を続けていたが、内戦の継続と資本の不足のために経済が停滞した。1990年からは市場経済を目ざして開放政策をとり、積極的な外資導入を図っている。ミャンマーはASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)への加盟を求め、ASEAN側には軍政の露骨な民主勢力抑圧を問題として反対する動きもあったが、1997年5月加盟が決定、同年7月正式加盟した。
国軍は陸軍37万5000、海軍1万6000、空軍1万5000(2007)で、志願制。
[酒井敏明]
植民地時代、ビルマの林鉱産資源の開発、運輸、貿易はイギリス人が、中小規模の商業と流通は中国人とインド人が支配していた。イラワディ・デルタの米作地帯は、イギリスの植民地となったのちに開拓されたものである。そのため、インド人季節労働者が大量に流入し、下ビルマ農地の3分の1はチェティア・カーストとよばれるインド人金融業者とイギリス人の不在地主が所有していた。米、チーク材、石油、金属を輸出し、工業製品は消費財に至るまで各種を輸入するという植民地型経済の典型がビルマにみられたのである。独立後は、おもな生産手段を国有化し、社会主義的経済の建設を標榜したが、資本と経営能力をもつ人材の不足のために、経済は全般に停滞を続けた。1990年に市場経済政策に転換し、その後経済は活発化した。1992~1995年ころは高い経済成長率を示したが、その後は為替レートの問題や硬直的な経済構造などが経済発展をさまたげ、外貨不足も顕著となっている。2003年5月のアウンサンスーチー拘束を受けて、アメリカが対ミャンマー制裁法を新たに制定したことが打撃となった。2004年10月にはヨーロッパ連合(EU)がミャンマーの反民主化的状況に対して行った制裁措置(ミャンマー国営企業への借款の禁止等を含む)を強化した。さらに2007年9月のデモ参加者に対する軍政府の強行手段の行使に対してアメリカ、ヨーロッパ連合はさらなる経済制裁の強加を行った。またオーストラリアも金融制裁措置を行うなど、厳しい経済状況が続いている。流通通貨はチャットKyat。
[酒井敏明]
1953年に土地改革が行われ、保有限度を超える農地が収用されて土地をもたない農民に配分された。1979年には427万戸の農家が960万ヘクタールの耕地を耕作し、1戸当りの所有農地は、農家の31%が2ヘクタール以下、24%が2~4ヘクタールであった。第二次世界大戦前の最盛期には米を毎年300万トン輸出する世界第1位の輸出国であったが、人口増加と価格の低迷、流通機構の不備もあって、輸出能力は激減した。
2005年の農業人口は全就業者人口の約70%と高率である。耕地面積は1006万8000ヘクタール、果樹などの永年作物地面積が88万8000ヘクタールとなっており、耕地面積の約60%を水田が占めている。2006年の穀物生産量は2647万4000トンで、そのうち約95%の2520万トンが米生産量である。
米のほかに下ビルマでおもに栽培されるのは、ワタ、サトウキビ、ゴマ、茶、ジュートなどである。乾燥する上ビルマでは運河や溜池を利用する灌漑農業が重要であり、米に次いでワタ、タバコ、ラッカセイ、ヒエ、ゴマ、豆類、トウモロコシの作付けが多い。シャン高原の丘陵地帯では各種果樹と野菜、茶、コーヒーが生産される。
森林面積は3222万ヘクタールで国土の49%を占め、このうち960万ヘクタールが管理森林である。外国資本の所有下にあった森林は1949年に国有化され、国家木材庁が伐採、搬出、製材、販売を独占している。木材の年間生産量(2006)は4254万8000立方メートルで、そのうち用材が426万2000立方メートル、残りの3828万6000立方メートルが薪炭材である。家具などに重宝されるチーク材や堅木類も用材として輸出されている。河川、湖沼、運河、水田などで網や簗(やな)を用いる内水面漁業が伝統的に盛んであったが、いまでは海面漁業が漁獲高の約70%に達している。2006年の全漁獲量は200万7000トンで、そのうち137万6000トンを海面漁業による漁獲量が占めている。水産物は塩干魚や魚醤(ぎょしょう)の原料としてビルマ人の食生活に欠かすことができない。
[酒井敏明]
原油はイラワディ川中流のエナンジャウンを中心とする一帯で採掘され、植民地時代には輸出産業として重要であった。しかし、第二次世界大戦中および内戦における被害が大きかったうえに、西アジア、北アフリカの産油量が飛躍的に増加したため、産油国としてのビルマの地位は極端に低下した。近年はチャウ、ミンブーなどで新しい油田が開発され、天然ガスとともに生産は伸びている。マルタバン湾岸やアラカン海岸沖では外国からの技術協力によって海底油田の探査が行われている。また、同地域やアンダマン海からは海底ガス田が発見され、産出された天然ガスの大半をタイへ輸出している。鉱物資源は各種埋蔵されているが十分に開発されていない。シャン高原北部ボードウィンの鉛と亜鉛、同高原南西部からタニンタリー地区沿岸にかけては錫(すず)とタングステンがある。採掘と精錬は1962年から石油鉱物開発公社が行っている。昔から知られているルビーとサファイアはシャン高原西部のモウゴウ、ひすいはカチン州南部モガウンで採掘される。工業は、植民地時代には精米、製材、石油精製のほかにはほとんどなかった。産業国有化政策によって1960年代に外資系企業が接収されるとともに新たに国営工場が建設され、業種も多様化している。いちおうの発展がみられるのは、砂糖、植物油、タバコ、ビール、紅茶などの食品工業、鋼鉄、農業機械、ポンプ、綿織物、絹、合成繊維、麻袋、薬品、洗剤、セメントなどである。
[酒井敏明]
植民地時代ビルマは、米、チーク材、石油、鉱物類の輸出が好調で、大幅な輸出超過を続けた。独立後は経済活動全般が内戦による混乱で低下し、一方輸入は人口増大のために膨張し、貿易は入超となった。1994年時には、輸出額の50.4%を米、豆類、トウモロコシ、ゴム、ジュートなど農産物が占め、チーク材を中心とする林産物22.2%、エビなどの水産物、鉛、亜鉛などの鉱産物、ルビーなど宝石類がこれに続いた。経済指標として、推定名目GDP(国内総生産)は約156億ドル(2007)、1人当りGDPは219ドル(2006)、経済成長率は5.0%(2005)、貿易額は輸出が約60億ドル、輸入が約31億ドル(2006)となっている。主要貿易品目は、輸出が天然ガス、チーク材、豆類、米、エビなど、輸入が機械類、金属・工業製品、原油、電気機械、紙類など。主要貿易相手国は、輸出がタイ、インド、中国、日本、ドイツ、マレーシア、輸入は中国、タイ、シンガポール、マレーシア、韓国となっている。
[酒井敏明]
旅客および貨物の国内輸送において約8000キロメートルの可航水路をもつ内陸航運が果たす役割は大きい。イラワディ川は雨期には河口から1400キロメートル上流のミッチーナまで、バモーまでは周年喫水1.2メートルの汽船が航行できる。支流のチンドウィン川は合流点から110キロメートル(雨期には610キロメートル)上流まで、デルタ地帯には3200キロメートルの可航水路がある。急流が多いサルウィン川は河口のモールメインから200キロメートルしか遡航(そこう)できない。アラカン地区のカラダン川にも水路がある。沿岸地帯には北のシトウェから南のメルギーまで汽船の航路がある。鉄道も国営で、全国に4809キロメートル(2005)の路線が営業している。路線網の中心は2006年10月まで同国の首都であったヤンゴンで、ここからマンダレー、プローム、マルタバンの各線が延びる。マンダレーからミッチーナに至るものや、イラワディ・デルタの支線もある。道路延長は約3万5900キロメートルあるが、舗装されているのはそのうちの12.9%(2002)にとどまる。国営ミャンマー国際航空会社はヤンゴン北郊にあるミンガラドン空港を中心として、国内45空港との間に定期便を就航させている。バンコク、クアラ・ルンプール、シンガポールの各都市には国際線が通じている。
[酒井敏明]
人口のおよそ70%を占めるビルマ人が政治、経済のあらゆる分野において大きな力をもっている。経済形態、社会組織、言語、宗教を異にする非ビルマ民族が20ほど存在し、山岳丘陵地帯に分布するばかりではなく、ビルマ人といっしょに平野や都市に居住するものもある。過去において勢力の消長があり、イギリス植民地時代の統治政策も絡んで、民族間の共存、融合の道は険しく、独立後の内戦の要因の一つは民族間の対立であった。
平野に住んで水稲耕作を営み、南方上座部(小乗)仏教を信奉するという点がビルマ人と共通するモン人(約130万人)は、モールメインを中心とするモン州北部とイラワディ・デルタに住む。シャン人(約250万人)はかつてシャン高原に34の小王国を建てた水稲耕作民であり、タイ人と同じ系統に属する。ビルマ人を除いて最大の集団カレン人(250万~300万人)は元来山岳地帯に住む移動農耕民であった。このうちポー支族は、平野やデルタ地帯に下って水稲栽培に進出したが、スゴー支族はシャン高原にとどまり、タイからの密貿易ルートを支配して現在なお反政府活動を続けているといわれている。ポー支族のうち、カヤー人(約7万5000人)はカヤー州に集中している。
カチン州やシャン州の辺境の山岳地帯には移動耕作民であるカチン人、ワ人、パラウン人などの閉鎖的な小社会が散在している。西部山地には北にナガ人(約5万人)、中央部のチン丘陵からアラカン山脈にかけてチン人(約35万人)が住み、ともに国境を越えたインド側により多くの同胞がいる。アラカン人はイラワディ川流域からは独立した歴史を展開してきたし、隣接するベンガルの影響のもとにイスラム教を信奉するものを含んでいる。このほか、人口の少ないいくつかの民族が居住するが、メルギー諸島のモーケン人は家舟に乗って移動する漁労民であることに特徴がある。なお、1982年新市民法が制定され、国民を純粋のビルマ人(少数民族を含む)、準ビルマ人(混血)、非ビルマ人(インド人、中国人)に分類し、後二者は議員への立候補や政府の責任者につくことを禁止した。
ビルマ人は上座部仏教を厚く信仰し、男子は10歳前後の年齢で、たとえ短期間でも見習僧として修行生活を経験するのが普通である。227に及ぶ厳しい戒律を守って僧院に起居するポンジー(僧)は民衆の尊敬を集め、托鉢(たくはつ)僧に食物を捧(ささ)げるのが民衆の毎日の生活の始まりとなっている。ヤンゴンにある、高さ99メートルの金色に輝く尖塔(せんとう)をそびえ立たせるシュエダゴン・パゴダは、仏教国ミャンマーの象徴である。家の守護神、村の守護神に食物や花のお供えを絶やさないナットとよばれるアミニズム崇拝も民衆の間に根強いものがある。ビルマ人と並んでシャン人、モン人も仏教徒であるが、山地民族には自然崇拝や精霊崇拝が多い。キリスト教各派伝道師は布教に努力したが、カレン人など一部の山岳民族に入信者を得たにとどまった。インド系住民はヒンドゥー教を守り、中国系住民は儒教、道教を心の支えとしている。
高温と雨に恵まれた暮らしやすい土地であることと関連して、一般にビルマ人は快活で楽天的であり生活を楽しむ。女性はよく働き、社会的地位は相対的には高いほうである。男子の見習僧生活のための入仏門式が重要な通過儀礼の一つであるのに対応して、女子は耳たぶに孔(あな)をあける穿耳(せんじ)式が成人のための儀礼である。こうした行事は親類や近隣の親しい人々といっしょに祝うのが例であり、このときには芝居が上演され、食事を用意してもてなす。
多数派であるビルマ民族の間では、仏教が社会的価値判断や個人の行動の基準として広く行き渡っている。しかし少数民族のなかにはキリスト教入信者もあり、アニミズムの信奉者もあるので、国民のあらゆる層を統合する力とはなりえていない。
教育制度は小学校5年、中学校4年、高校2年の五・四・二制で、義務教育が憲法で定められており、義務教育の小学校の授業料は無料。僧院での寺子屋教育が盛んで識字率は男93.7%、女86.2%(2003)と高い。ミャンマー語を公用語とし、英語も広く用いられる。一部で日本語も話されている。新聞はミャンマー語、英語が用いられ、ラジオ放送、テレビ局、通信社もあるがメディアはいずれも国有である。
[酒井敏明]
1954年(昭和29)11月、平和条約を調印し国交を樹立した。2007年度までの日本の政府開発援助(ODA)額累計は、有償資金協力4029億7200万円、無償資金協力1797億9000万円、技術協力359億9100万円となっている。経済協力開発機構(OECD)加盟国中では日本は最大の援助国である。
2007年の対日輸出額はエビなどの食料品、林産品を中心に1億5520万ドル、輸入は機械、輸送用機器、電気機器など1億0920万ドルとなっている。
[酒井敏明]
『外務省監修『世界各国便覧叢書53 ビルマ』(1974・日本国際問題研究所)』▽『大野徹他著『ビルマ――その社会と価値観』(1975・現代アジア出版会)』▽『G・E・ハーヴェイ著『ユーラシア叢書16 ビルマ史』(1976・原書房)』▽『佐久間平喜著『ビルマ現代政治史』(1984・勁草書房)』▽『綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいミャンマー第2版』(1994・弘文堂)』▽『田村克己・根本敬著『アジア読本ビルマ』(1997・河出書房新社)』▽『高橋昭雄著『現代ミャンマーの農村経済』(2000・東京大学出版会)』▽『藤田幸一編『ミャンマー移行経済の変容』(2005・アジア経済研究所)』▽『天川直子編『後発ASEAN諸国の工業化』(2006・アジア経済研究所)』▽『高谷紀夫著『ビルマの民族表象』(2008・法蔵館)』▽『工藤年博編『ミャンマー経済の実像』(2008・アジア経済研究所)』
基本情報
正式名称=ミャンマー連邦Union of Myanmar
面積=67万6578km2
人口(2010)=5050万人
首都=ネーピードーNaypyidaw(日本との時差=-2時間30分)
主要言語=ビルマ語
通貨=チャットKyat
東南アジア,インドシナ半島西部の共和国。1989年,国名のビルマBurmaをミャンマーとビルマ語による呼称に改めた。東はタイ,ラオス,北東は中国,西はインド,バングラデシュに囲まれる。面積は日本の1.8倍,タイやフランスよりやや大きい。1948年にイギリスから独立した。国民の85%までが仏教を信仰している。
国土は,北緯9°36′~28°29′,東経92°10′~101°09′に位置する。全体の形はひし形に近い。東西の幅は最大900km,南北の長さは1300kmであるが,南端から細長い帯がさらに800kmも南のマレー半島の方にのびている。地勢は北高南低で,西からのびてきた低地ヒマラヤがミャンマーの北端で分岐し,一つはインド,バングラデシュとの間をナガ丘陵,チン丘陵,アラカン山脈の山並みとなって南走し,もう一つは中国,ラオス,タイとの間でシャン台地,テナッセリム山脈を形成,マレー半島へと連なっている。国土の東と西を南北に走るこの二つの山並みに挟まれた中央をイラワジ川が北から南へ貫流し,流域に平野を形づくっている。ヒマラヤ山脈へと連なる北部のカチン山地には,カカルボ・ラージ,ガムラン・ラージといった6000m近い高峰が群立している。おもな河川は,イラワジ,シッタウン,サルウィンの三つで,いずれも国土を北から南へと縦貫している。イラワジ川は全長2400km,流域面積41万km2におよぶ大河で,国土のほぼ中央を流れ,下流でヤンゴン(旧ラングーン),バセインなど九つの分流となってマルタバン(モウタマ)湾に注いでいる。3万5000km2の面積をもつ下流の低湿地帯はイラワジ・デルタと呼ばれ,この国最大の米の生産地になっている。中央部で合流するチンドウィン川はイラワジ最大の支流で,北西のナガ丘陵に源を発している。シッタウン川はシャン台地に源を発し,シャン台地とペグー山脈とに挟まれた狭い平野を流れてマルタバン湾に注ぐ。560kmにおよぶ水路の大半は船舶の航行には不向きである。サルウィン川はチベット高原に源を発し,雲南を経由,シャン台地からカヤー,カレン両州を2800kmにわたって貫流したのち,マルタバン湾に注ぐ。急流が多いが,木材の搬出に利用されている。
中部と南部が熱帯,北部は温帯に属し,気候は南と北でかなり違うが,全体としてみれば高温多湿である。南西および北西からの季節風の影響で1年が雨季と乾季に分かれ,雨季は5月ごろから10月ごろまで,乾季は11月ごろから4月ごろまで続く。年降水量は,中部の乾燥地帯では600~800mmと少ないが,イラワジ・デルタでは2500mm,アラカン,テナッセリム両海岸では4000~5000mmに達する。雨季の雨は日本の梅雨とは違い,激しいスコール性である。乾季は,11月から2月ごろまでの涼季と,3月ごろから4月までの暑季(暑季はさらに雨季に入った5月末ごろまで続く)とに分かれる。涼季には北西季節風の関係で降水量が0に近くなり,1日の最低気温がヤンゴンでも15℃まで下がることがある。暑季は酷暑の季節で,内陸部の乾燥地帯では日中の最高気温が40℃を超すこともまれではない。植物は全土で約7000種知られているが,生育地によって温帯山地林,常緑熱帯降雨林,有刺叢林,半砂漠林などに分かれる。
ミャンマーは多民族国家である。総人口の70%近くが平地に住むビルマ族で,残りは山地に住むさまざまな少数民族が25%,インド人,華僑などの外来アジア人が5%ほどいる。ビルマ土着の民族は人類学的にはすべてモンゴロイドであるが,言語系統的には,チベット・ビルマ語派,タイ諸語,アウストロアジア語族,アウストロネシア語族の四つに分かれる。イラワジ川流域の平地に住み,チベット・ビルマ語系の言語を話すビルマ族は,9世紀の中ごろ,北方から移動してきたとみられる。同じチベット・ビルマ語系の民族でも,カチン族は中国国境沿いのカチン州に,チン族はインド国境に接したチン州に住んでいる。タイ諸語系の民族のうち最も人口が多いシャン族は,タイ,ラオスと国境を接したシャン州に住んでいる。カレン族はサルウィン川流域のカヤー,カレン両州とイラワジ・デルタに多い。アウストロアジア語系のモン族はサルウィン川下流域のモン州に,パラウン族はシャン州北部にそれぞれ住んでいる。〈海のジプシー〉と呼ばれるサロン族はアウストロネシア語系の民族で,南端の島嶼(とうしよ)を中心に海上漂泊の生活をしている。
仏教国で全人口の85%までが仏教を信仰し,なかでもビルマ,モン,シャンの3民族は100%近くが仏教徒である。このほか,山地少数民族に多いアニミズム(5%),インド系住民によるイスラムとヒンドゥー教(各4%),カレン,カチン,チンなどの山地民の間に広まっているキリスト教(2%)などがある。ビルマの仏教は,スリランカ,タイ,カンボジアなどの仏教同様に南方上座部仏教で,前3世紀の初めごろ,モン族の地ラーマニャデーサに伝えられたのが最初だとされる。その後パガン朝の興隆とともに全土に普及し,15世紀後半にはスリランカの大寺派の授戒様式が伝えられて今日のビルマ上座部仏教の基礎となった。パガン時代には国王や王族,貴族による仏塔,寺院の建立が盛んに行われたが,そうした建塔思想はその後も人々の間に強く根を張っており,今日でも白い仏塔が全国いたるところで見られる。またビルマ人の社会では,男子は一生に一度は出家得度して修行するのが不文律となっている。10万人を超す比丘とそれに数倍する沙弥とで成る出家集団は,広範な在家信者の存在に支えられている。
王朝制国家であった19世紀以前のビルマでは,社会は,王権を支える官僚,軍人階層のアフムダンと,農民層のアティーという二つの身分によって成り立っていた。こうした身分制度はイギリスによる植民地化とともに消滅し,今日のビルマ人社会には身分制度は存在しないといってよい。都市住民と地方住民との間には意識や行動,価値観などの面でかなりの違いがみられるが,ビルマ語を話し,仏教を信仰し,伝統的生活様式を維持しているという点で両者は基盤を共有しているといえる。山地居住の少数民族と平地居住のビルマ族との間には大きな違いがあるが,この溝は植民地時代に為政者によって巧妙に利用されたこともあって,容易には埋まりそうにない。
ビルマ人の社会は,夫婦とその子から成る核家族が中心である。しかし居住形態からみると直系尊属,直系卑属との同居や,結婚した子どもが親と同居する拡大家族,結婚した兄弟姉妹たちが同居する傍系の拡大家族の例も,決してまれではない。新婚夫婦の居住形態は妻の両親と同居する妻方居住制が普通であるが,たいてい数年後分出する。家族相互の紐帯は緊密で,父子・長幼の間に厳然とした秩序がある。けれどもそれは,家父長制社会であることを意味しはしない。ビルマ人の社会は父方,母方へのつながりが均等な双系制社会で,〈イエ〉という観念はない。先祖の霊をまつる祖霊信仰もない。遺産は子どもたちの間で均等に相続される。もっとも,ビルマ族以外の場合は事情が異なる。モン族やシャン族は仏教徒とはいっても祖霊祭祀を行うし,カチン族やチン族の間では,長子ではなく末子中心に財産相続が行われている。なお,5歳から10歳まで5年間の義務教育が実施されている。
太古,イラワジ川流域に人が住んでいたことは,斧やのみなどの打製石器,局部磨製石器の出土によってうかがえる。これらの石器は今からおよそ1万1000年前,すなわち旧石器時代の終りから新石器時代の初めにかけて使用されたとみられている。
《南伝大蔵経》の中に含まれる《島史》や《大史》などの記述によると,アショーカ王の時代,第3回結集(けつじゆう)終了後,多数の布教師がインドから各地へ派遣されたが,ソーナとウッタラの両長老は金地国(スワンナブーミ)へ派遣されたという。その金地国は,ビルマの仏教史書によるとサルウィン川,シッタウン川の下流にあったモン族の国ラーマニャデーサだとされる。それが事実だとすれば,マルタバン湾岸のラーマニャデーサとインド東岸との間には,前3世紀ごろから交流があったということになる。
イラワジ川の流域には,ピュー族の遺跡が点在している。遺跡はいずれも城市の周囲を煉瓦造の長大な城壁で取り囲み,その外側を堀で囲繞(いによう)した防衛的性格の強いものである。出土した遺物の炭素14法による測定値から考えて,これらの遺跡は2世紀から9世紀ごろまでの間に栄えていたとみられる。その住民は,チベット・ビルマ語系の言語を話す民族で,漢籍史料には驃,僄,剽,漂などの名称で現れるが,自称は突羅朱であった。彼らは両面に文様を施した銀貨を使用し,死者は荼毘(だび)に付したのち,壺や石甕に納めて埋葬した。彼らが使用した文字はインドのカダンバ文字に類似している。ピュー族の国は9世紀中ごろ,雲南の南詔に攻撃され,住民多数が拉致されて滅亡した。
ピュー族国家の消滅を契機にイラワジ平野に進出したのが,同じチベット・ビルマ語系のビルマ族である。彼らはアノーヤターの指導の下に国土統一に成功,11世紀中ごろパガン朝を築いた。パガンではモン族の地タトンからもたらされた上座部仏教が信仰され,多数の堂塔・伽藍が建立された。人々は,土地や奴隷をこぞって三宝(仏法僧)に寄進した。この華麗な仏教文化の開花が,一方では国力の衰退を招いた。パガンは13世紀後半,4度にわたって繰り返された元の侵攻に耐えきれず,1287年瓦解した。その後のビルマの覇権は,東部山地からミンザインへと進出してきたシャン族の手に移行した。シャン族は元の5度目の侵攻を撃退したのち,1312年にピンヤ,15年にはサガインの両王朝を建てた。この両王朝は64年タドーミンビャーによってアバ朝に統合されたが,北のシャン系諸部族の攻撃で16世紀前半に滅び去った。
パガンの崩壊後,シャン族の支配を逃れて南下したビルマ族は,シッタウン川の上流タウングーに集結し城砦を構築した。16世紀中ごろ,ダビンシュウェティー,バインナウンといった傑出した指導者の出現とともに,ビルマ族は史上2度目の国土統一を達成する。タウングー朝ビルマはチエンマイ,アユタヤ,ビエンチャンといったタイ族諸王国を攻略して強大な王国に成長したものの,相次ぐ遠征に伴う絶えざる兵士の徴発,農地の荒廃,国力の衰退といった悪循環を引き起こした。17世紀から18世紀にかけて,西方のマニプル,北方の清などのたび重なる侵犯やチエンマイの離反,新興勢力グウェの勃興などによって衰弱したタウングー朝は,1752年南方のモン族の手で倒された。
このモン族の興隆に対抗してビルマ族の覇権を三たび確立したのが,シュウェボー出身のアラウンパヤーである。彼は5年間におよぶモン族との戦闘に打ち勝って1752年コンバウン朝を建てた。彼とその後継者たちは一貫して拡張政策を遂行した。60年代に8年間続いた清の侵略を撃退する一方,1752年にはルアンプラバン,67年にはアユタヤ,85年にはアラカンを征服して広大な版図を築いた。しかしとどまることを知らぬ拡張主義は,19世紀に入りイギリス勢力と接触することによって挫折する。イギリスとビルマとの戦争(ビルマ戦争)は3回行われた。最初の衝突はアッサム紛争とアラカン国境での国境侵犯とがきっかけで1824年に発生,敗れたビルマはアッサム,マニプルの放棄,アラカン,テナッセリム両地方の割譲,賠償金1000万ルピーの支払という犠牲を払わされた。2度目の衝突は,イギリス人船長に対するラングーン太守の罰金徴収をめぐって52年に発生した。インド総督は一方的にペグー地方のイギリス領化を宣言,ビルマ王国を内陸部に封じ込めた。3度目の衝突は,イギリス系木材企業の脱税に対するビルマ政府の罰金課税が発端となって85年に起きた。インド総督はビルマの実質的保護領化を内容とする最後通告を突き付け,拒絶されると軍事行動に出て王都マンダレーを落とし,国王ティーボーを捕らえた。ビルマ王国はこうして滅亡し,86年全土がイギリス領とされ,植民地となった。
イギリスの支配に対するビルマ人の政治的反応は,第1次世界大戦が終了するまではほとんど表面化しなかったが,モンタギュー=チェルムスフォード報告により両頭制政治がインドに導入された1919年,ビルマだけがこの〈改革〉から除外されたことからビルマ人の民族感情が高まった。それは20年の大学ストを契機に高揚し,ビルマ人団体総評議会という政治結社を誕生させるにいたった。またウー・オッタマ,ウー・ウィサヤといった反英・反権力思想の僧侶による民衆への啓蒙運動も大きな影響を与えた。23年ビルマにも両頭制が導入され,副総督は総督に昇格した。立法評議会選出の長官2名には農林,教育,厚生といった事項が譲渡されたが,財政,地租,警察,司法といった留保事項は総督の掌中に残され,国防,外交,通貨などの重要事項はイギリス領インド政府が握ったままであった。こうした部分的行政改革が行われたものの,農民の貧困化が進行し,30年末ターヤーワディ地方の農民たちが税の延納,減税を要求して蜂起した。この一揆は各地に波及したが31年に指導者のサヤーサンが死刑に処され,32年には一揆は鎮圧された。当時イギリスでは,インドからのビルマ分離の必要性が論議され始めていた。35年に成立した改正ビルマ統治法によってビルマはインドから分離され,イギリス国王の名代である総督によって統治されることになった。上・下両院から成る立法評議会の選挙が行われ,任命制の長官10名で構成される行政参事会が設けられた。初めて成立したビルマ人の政権は,バモーを首班とするものであった。1930年代は,急進的な民族主義者が台頭した時代でもある。自分たちの名前に〈主人〉を意味するビルマ語〈タキン〉を付けて呼びあったことから,彼らはタキン党と呼ばれる。
第2次大戦の勃発に伴い,ビルマ人の間では戦争協力をめぐって意見が対立した。非協力を主張するタキンや,タキンたちと組んで自由ブロックを結成したバモーらは,弾圧された。日本の参謀本部によって設置された対ビルマ謀略機関〈南機関〉は,40年から41年にかけて青年タキン30名をビルマから密出国させ,海南島で軍事訓練を施したうえ,ビルマ独立軍を結成させた。太平洋戦争勃発とともに,ビルマ独立軍は日本軍と連携してビルマに進出した。バモーを首班とする中央行政府が設けられ,43年には東条内閣によってビルマ独立が許容された。しかし日本によるビルマ独立は見せかけにすぎず,対日不信を募らせたアウンサンらは,45年3月ビルマ軍を率いて蜂起,全土で抗日運動を展開した。
終戦とともにビルマにはイギリスの民政が復活した。ビルマ軍,ビルマ共産党,ビルマ社会党の統一組織〈反ファシスト人民自由連盟〉は,イギリスのアトリー内閣を相手にビルマ独立の交渉を行った。47年7月にアウンサン以下7名の行政参事会員が暗殺されるという悲運に見舞われたものの,ビルマは48年1月4日連邦共和国として独立した。
独立と同時に,ビルマは国家崩壊の危機に直面した。その第1は,コミンフォルムの闘争路線を反映して行われた48年3月のビルマ共産党の武装蜂起である。同年8月には左派の人民義勇軍が反政府活動に転じた。49年1月にはテナッセリムやイラワジ・デルタでカレン族が蜂起した。正規軍からもカレン族3個大隊が反徒側に寝返った。カレン族の臨時政府がタウングーに樹立され,カレン国〈コートゥーレー〉の独立が宣言された。ビルマ軍はネーウィン司令官の下に兵員を強化して事態収拾に努め,反政府組織の活動は52年を境に衰退した。このころ国民は,長びく内戦と万年与党の座に安住して腐敗した反ファシスト人民自由連盟に不満を抱いていた。56年の総選挙では,弱小10政党が合同結成した民族統一戦線が250議席中47議席を獲得して与党をあわてさせた。与党内部では,指導者のウー・ヌとウー・バスウェ,ウー・チョーニエインとの間に亀裂が入った。両派の対立が激化し,58年6月には分裂したため,ネーウィン参謀総長が担ぎ出され,選挙管理内閣が組織された。60年2月の総選挙ではウー・ヌの率いる連邦党が圧勝,反ファシスト人民自由連盟は大敗し,ウー・バスウェもウー・チョーニエインも落選した。ウー・ヌ内閣が再登場したが,政情は不安定であった。シャン族の間からは連邦離脱の声が出始めた。カチン族の過激派も独立を求めて蜂起した。ネーウィン将軍は62年3月クーデタを決行,政治家を逮捕するとともに憲法を停止,国会を解散した。高級将校16名から成る革命評議会が結成され,議長のネーウィンが全権を掌握した。革命評議会は議会制民主主義を否定,社会民主主義国家の建設を目ざして生産資本を国有化した。既成政党はすべて解散され,〈ビルマの社会主義への道〉と題する綱領を実現する組織として,ビルマ社会主義計画党が結成された。中央から地方の末端にいたるまで,すべての行政機構に軍人が配置された。
革命評議会は,治安回復を目標に63年6月反政府諸組織と和平交渉に乗り出したが,カレン族右派勢力との交渉を除いて不成功に終わった。しかし農民評議会,労働者評議会など国民の組織化は着実に進められた。71年新憲法起草委員会が設置されて各地で公聴会が開催され,3回にわたって練り直された憲法草案は73年12月の国民投票で90%強の支持を得て承認された。74年1月人民議会の選挙が行われ,選出議員450名による第1回人民議会が3月に開かれた。革命評議会は解散され,12年間にわたって続いた軍政は廃止された。軍籍を離れたネーウィンが大統領に選出されて民政移管は完了し,国名もビルマ連邦社会主義共和国と改められた。革命政権時代のビルマは,国連外交を進めるほかは東南アジア条約機構にも東南アジア諸国連合(ASEAN(アセアン))にも加盟せず,鎖国に近い独自の路線を推進した。民政移管に前後して73年アジア開発銀行に加盟,東南アジア開発閣僚会議にも代表を派遣するなど,いくらか開放的姿勢を示しはしたが,中立・非同盟という基本方針だけは堅持した。超大国に対しては等距離姿勢をとり,79年には左傾化した非同盟諸国会議を非難して脱退した。
1962年のクーデタは議会制民主主義を否定したが,74年の民政移管では,国権を行使するのは国民の代表たる人民議会であるということになった。人民議会は唯一の立法機関で一院制である。全国475の選挙区(1区1人。1981年10月現在)から選ばれた議員によって構成され,多数決の原理に基づいて運営される。任期は4年で,年に2回定例議会が開かれる。大臣17名で構成される閣僚組織,行政を担当する機関である。大臣はすべて人民議会の議員の中から選出され,人民議会に対して責任を負う。任期は4年で,首相は閣僚組織の間で選出される。人民裁判組織は最高の司法機関で,判決は判事たちの合議に基づいて行われる。判事は9名で,すべて人民議会の議員の中から選出され,人民議会に対して責任を負う。任期は人民議会同様4年である。ビルマの国家機能は,このように立法,行政,司法の三権に一応分離されてはいるものの,すべてが人民議会を出発点とし,各機関の責任もまたすべて人民議会に対して負うという人民議会至上主義が貫かれている。これは,人民議会が国民の代表によって構成される最高の国家機関だという認識に基づいてとられた措置である。
国家評議会もまた,この人民議会を基につくり出された機関の一つである。この評議会は地方行政区画を基準に選出された人民議会議員28名と首相とによって構成され,人民議会に対して責任を負う。任期は4年である。この評議会には,人民議会の閉会中,法的拘束力をもつ命令を出す権限が与えられており,非常事態宣言や軍政布告,外国からの侵略に対する軍事行動の決定,閣僚候補の選定,諸外国との国交・断交などの決定,条約の締結・批准・破棄・脱退などの決定,中央および地方各段階の行政機関に対する指導・監督といった高度の政治的権限が付与されている。また,この評議会の議長に選出されたものは大統領に就任することになっており,国家を代表する。
地方の行政は,人民評議会によって執り行われる。地区は管区または州,郡,村落または区の3段階に分けられ,各段階ごとに人民評議会が設置される。評議会の議員は当該地区の住民による直接選挙で選ばれる。任期は4年である。
74年に制定された現行憲法では,ビルマ社会主義計画党による一党独裁がはっきり打ち出されいる。この党は,革命評議会の基本綱領を推進する機関として1962年7月に結成された。共産党が非合法化され,既成政党がすべて解散されたビルマでは,存在を認められた唯一の政党である。設立当初は革命評議会のメンバーを中心とする限られた数の正党員による幹部政党であったが,70年以降大衆政党に改編された。党には中央,監査,規律の3委員会が設けられ,それぞれ党大会で選出された委員によって構成されている。中央委員会の下には,管区(または州)段階の地域委員会,郡段階の党支部が置かれている。計画党には国家を指導するという重要な役割が与えられており,人民議会や人民評議会の議員候補は党員であることを要求されている。83年末現在,計画党議長にはネーウィン,大統領には81年11月にネーウィンから引き継いだサンユ,首相にはマウンマウンカが就任している。いずれも軍人出身で,現在のビルマの政治体制が軍政当時の性格を基本的には継承したものであることを示している。
こうした政治体制に対して,その打倒あるいは武力による反対闘争を展開して,いる反政府組織には,独立以来武装闘争を続けているビルマ共産党と,現在の国家体制からの離脱を志向する少数民族の組織とがある。ビルマ国軍は,現在の国家体制の維持のためその反政府組織と厳しく対決しているが,兵力約12万の陸軍と6000の海軍,7000の空軍の三軍から成る。主力は陸軍で,9軍管区,6個師団で編成されている。
独立までのビルマ経済は,農業,林業,鉱業などの第1次産業による生産と輸出,および完成消費財の輸入という植民地型経済の典型的な構造をしていた。原材料の供給源,完成消費財の市場というビルマ経済のこの基本的性格は,太平洋戦争によって破壊を被りはしたものの,独立後もさほど変化しなかった。むしろ輸出に占める米の比率だけが異常に高まるなど,ますます先鋭化する傾向にあった。たまたま朝鮮戦争の特需で潤った1952年,政府は8ヵ年の野心的な経済開発計画を立案したが,国際市場における米の需要の後退で外貨事情が悪化し,わずか4年間で計画は破棄されてしまった。62年に登場した軍事政権は社会主義を志向し,63年から64年にかけて金融,流通機構を,67年から68年にかけては生産機構を国営化した。1964年にはビルマ輸出入公社が設立されて貿易のいっさいがこの組織に独占されるようになり,65年には22の公社が設立されて主要産業の国家管理が行われるようになった。1950年代にはあまり実効の上がらなかった土地の国有化も,農業関係法の整備によって60年代には実現,小作農は自作農となり,地主は特権を剝奪された。64年以降,政府は工業化政策にも力を注いだ。事実,部門別の投資割合は70年代においても,農業の一桁台に対し工業のそれは総額の1/4近くを占めている。そうした努力にもかかわらず,ビルマの国内総生産に占める工業の割合は1981/82年現在で1/10強にすぎず,農業が1/4強を閉めている。農業の役割が依然としてきわめて重要であることを示しており,労働総人口からみても65%が農業従事者である。その農業生産の中心は米で,耕地総面積の5割強が水田で占められ,輸出総額の50%は米の輸出による。米やチークといった特定の一次産品を輸出し,建設資材,機械,輸送設備などの資本財を輸入するというビルマの貿易の特徴は,年をおって強まっている。このような貿易構造を反映して,貿易の相手国も,輸出がヨーロッパ共同体,スリランカ,バングラデシュ,インド,インドネシアといったビルマ米およびその他の一次産品の需要国が中心であり,輸入は日本,ヨーロッパ共同体といった先進諸国が相手となっている。なかでも日本の割合は輸入全体の3割を超えており,その重要性がうかがえる。
産業の基幹である農業の生産形態は,自然条件の違いによって,海岸地帯における米の単一栽培と内陸部における各種の畑作物栽培とに分かれる。これは,年降水量が2500~5000mmと豊富な海岸地方と,1000mmを割る内陸部との違いによるもので,前者では天水による稲作が可能であるが,後者では灌漑を必要とする。畑ではゴマ,豆類,ワタ,ラッカセイなどが栽培される。
ビルマ文学の萌芽は仏教の受容を契機に始まったとみられるが,本格的にはアバ朝(13~16世紀)以降,韻文,散文の両形式をとりながら発展してきた。韻文は4音節1行の形式をもつ詩が中心で,構成様式や内容によって長編詩(リンガー),経典詩(ピヨ),宮廷叙事詩(エージン),史詩(モーグン)などに分かれる。いずれも韻が行ごとに第4・第3・第2音節と遡行する変形脚韻を特徴としている。初期の作家にはパーリ語の仏典を自由に読みこなす僧侶が多かったが,のちには王権を賛美し国王の事跡を記録する形の作品も現れた。散文体の文学作品には,古くは仏伝なかんずくジャータカ(本生譚)を題材とするものが多かった。マハーティーラウンタ,マハーラッタターラ,エッガタマーディなど16世紀初期に活躍した作家のほとんどが僧侶で,その作品もジャータカ,ことに最後の十大説話(マハーニパータ)に取材したものが多い。タウングー朝の16世紀後半になると《ラーザダリ戦記》のような戦記文学,ニャウンヤン朝(17~18世紀)になると《マニコンダラ物語》や《ヤタワッダナ物語》のような仏典に基づく物語や,ウー・カラーの《マハーヤーザウィン》のような編年体の王統史などが現れる。その次のコンバウン朝(18~19世紀)はビルマ古典文学の爛熟期で,作家が輩出した。この時代は宮廷文学の最盛期であったが,仏教文学もまだ命脈を保っており,ウー・オーバータの手になる作品は有名である。
近代西洋文学の影響は,ビルマの植民地化が進行した19世紀末から20世紀初頭にかけて現れ始める。その最初は《イソップ物語》や《ロビンソン・クルーソー》のような物語の翻訳,《モンテ・クリスト伯》を下敷きにした《マウンインマウン・マメーマ物語》のような翻案作品であった。やがてそれはウー・ラットの《シュウェピーゾー》(1914),タキン・コードーマインの《フマードーポン》(1916),ピーモーニンの《ネーイーイー》(1920)のようなビルマ人の手になる創作へと発展した。1930年代に入ると,テイパン・マウンワ,ゾージー,ミントゥウンといったラングーン大学を拠点とする若い知識人を中心に,時代に挑戦する新しい文学(キッサン)が勃興した。独立後の作品は,抗日運動を扱った反戦文学や,因習的社会からの解放を主題とする社会主義文学,人間のさまざまな生き方を描いたリアリズム文学など,多方面にわたっている。
ビルマの美術作品は絵画,彫刻,建築物のいずれも,仏教文化と密接に結びついている。現存する絵画のうち,時代的に古く量的に最も多いのは寺院壁画である。壁画の大半はパガン朝(11~13世紀)に描かれたもので,今でもパガン遺跡の寺院内には当時の壁画が残っている。画題は釈迦生存中のおもなできごと,なかでも八大事象を示す釈迦八相図や,仏陀の前世の姿を描いた本生図などが中心で,それに付随するものとして,菩薩や緊那羅(きんなら),乾闥婆(けんだつば),飛天,竜王,薬叉(夜叉)などの護法神図,象,馬,牛,鳥,魚などの鳥獣図や植物文様などがみられる。彫像には素焼きの塼仏,ブロンズ像,木像,石像などがある。全体が木の葉の形をしていて表面に仏,菩薩の像を浮彫にされた塼仏は,仏塔建立の際に法舎利として塔内に宝蔵されるのが目的で作られ,大きさも10~20cm程度しかない。青銅像も法舎利として作られたもので,大きさは20~30cmと塼仏よりはひと回り大きい。木彫の像や石像は最低でも1m前後はあり,寺院内の尊像あるいは壁面内外に設けられた龕(がん)の中に納める像として製作されたとみられる。造像様式には時代的変遷がみられるものの,仏,菩薩像は32相80種好を備えたものとして作られている。仏教建築物には,仏塔と寺院とがあり,前者はストゥーパから発展した円錐形の建造物,後者は内部に尊像をまつった建物である。
執筆者:大野 徹
ミャンマーは,インド,中国,タイなどの国々と国境を接しており,その音楽も古くからこれらの国々の影響を受けてきた。9世紀初めには,先住民族の国ピュー(驃)から唐に楽人たちが来貢し,白楽天は《驃国の楽》という詩を詠んでいる。11世紀中ごろにビルマ族のパガン朝が興った。今日パガンに残されている仏教壁画からみて,ビルマの古典音楽は11~13世紀には成立していたと考えられる。また,16世紀と18世紀にタイのアユタヤ朝を攻略し,多くの舞人・楽人たちを捕虜として連れ帰った。このときアユタヤの楽舞がビルマに伝えられ,しだいにビルマ風に変化して今日の様式が形成された。
代表的なものにサイン・ワインと呼ばれるにぎやかな野外で行われる合奏と,サウン(弓形ハープ)やパッタラー(竹琴)などによる静かな室内用音楽とがある。楽器はほかにドウンミン(箱形チター),タヨウ(3弦の胡弓),ミジャウン(鰐形チター),マダリン(マンドリンの変形楽器)や,オウジー(花杯形の太鼓)など多くの太鼓がある。歯切れのよいリズムと明るい中にも一抹の哀愁のこもった旋律に特徴がある。歌詞の内容は釈迦や王,国土の賛美,自然や恋愛を歌ったものなどであるが,いずれも仏教的色彩の濃いもので,主として仏教儀式や通過儀礼にまつわるポウェ(祭り)の場で演奏される。とくに10月にインレイ湖で行われる船祭では,カラウェイ(迦陵頻伽(かりようびんが)。〈極楽にすむ鳥〉の意)と呼ぶ黄金の鳥形の船とそれを引く多くの小舟の上で音楽が演奏され,乙女たちが優雅に舞う。音階は,西洋の長音階のミとシの音がやや低められた7音音階であり,リズムは弱強型の2拍子系である。歌い手はシーとよぶ小型シンバルを弱拍に,ワーとよぶ拍子木を強拍に打って,曲のテンポを決める。
執筆者:大竹 知至
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イラワジ川流域地方の呼称。11世紀以来この地に覇権を確立した民族名に由来。それ以前は,中国によって驃(ピユー)と呼ばれた。南の海岸部や,東,北,西の地域およびマレー半島部に伸びるタニンダーイー地方は年間2000~5000mmの降雨があるが,中央部は500~900mmで,東南アジアでは稀な寡雨地帯となっている。19世紀まで政治権力の中心地は中央部に存在し,乾燥地の特産物(綿など)を東南アジア大陸部諸国に輸出した。この地に成立した王権は主として仏教思想にもとづき,自己の正統化を図ってきた。仏塔に対する信仰が篤く,イラワジ川流域地方の景観を特異なものにしている。北西には中国へ至るルートが古くから開けていたこともあり,18世紀後半から西欧列強の注目するところとなり,19世紀にはイギリスの植民地となって,政治経済の中心が沿岸部湿潤地に移った。植民地下では南部デルタの稲田開発が進み,領域の経済構造が稲作を中心に再編された。1942年から45年にかけて日本軍政下に入り,48年に独立。その後社会主義路線を志向するが,共産党や少数民族などの反乱により政治的混乱に陥り,62年以降は軍事政権の支配下にある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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