輪田荘(読み)わたのしょう

百科事典マイペディア 「輪田荘」の意味・わかりやすい解説

輪田荘【わたのしょう】

摂津国八部(やたべ)郡にあった荘園。兵庫輪田荘とも。兵庫県神戸市兵庫区の和田岬を中心に展開する。1071年の太政官符(九条家文書)に正子内親王家領として本免田5町と荘司5人・寄人10人の雑役免とみえる。1105年橘経遠が宇治村の石重名30町を藤原道長の曾孫宗通に寄進し,のちこれらが九条家に伝領された。平家の勢力が八部郡に及ぶと近隣の平家領荘園に押領されが,平家没落後九条兼実は経営を立て直して一円不輸化を図り,九条家一流の相承とした。1204年の九条兼実置文では光明院(法性(ほっしょう)寺,現京都市東山区・伏見区)領であった当荘を娘の宜秋門院に譲っている。領家職は子女に分割して与えられ,13世紀末には東方は京極局,西方は藤原良兼の妻であった。1298年西方は地頭請所となったが年貢進貢などを巡り紛争が絶えず,東方も同様の状態で下地中分に至った。元弘の乱後は赤松範資が西方に侵入し一円支配を強行したため相論が続いた。嘉吉の乱後に赤松氏の所領である兵庫荘が将軍家料所となり,当荘西方も混同されたか料所とされた。応仁文明の乱後には当荘は不知行になっている。

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改訂新版 世界大百科事典 「輪田荘」の意味・わかりやすい解説

輪田荘 (わたのしょう)

摂津国菟原郡(現,神戸市兵庫区和田地区)の荘園。はじめ後朱雀天皇の五女正子内親王の家領で,延久の荘園整理にさいし本免田5町,荘司5人,寄人10人の臨時雑役が免ぜられた。その後,藤原宗通の所領となり,1105年(長治2)に橘経遠から田畠30町の寄進をうけ,宗通から婿の藤原忠通が建てた最勝金剛院に寄進された。一時平氏に占領されたが,まもなく返付され,九条家に伝領されて応仁の乱後まで存続した。はじめ半不輸であったが,九条兼実はこれを一円不輸の家領として預所に支配させ,光明院,報恩院の仏事用途料100石,銭110貫文を収取して子孫に伝えた。鎌倉期には荘域が東西に分けられ,預所・雑掌・田所ら荘官の争いがくり返され,地頭の勢力がのびて東方は下地中分,西方は地頭請となった。南北朝期には90貫文で赤松範資らが請け負い,室町期には長塩・斎藤氏らが請け負ったが,未進が多くなり,応仁の乱後,消滅した。
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