改訂新版 世界大百科事典 「農業集団化」の意味・わかりやすい解説
農業集団化 (のうぎょうしゅうだんか)
collectivization of agriculture
個人農を何らかの集団的経営に組織すること。農業の集団的大規模経営については,C.フーリエにもその合理性の主張がみられるが,その主張はマルクスを経て,カウツキー,レーニンへと受けつがれ,1917年の十月革命後のソ連で実行に移される。第2次大戦後は東ヨーロッパの社会主義諸国でも,集団経営が農業の基本形態として位置づけられるようになった。中国では1953-57年に合作社運動が展開され,58年に人民公社が登場する(1980年代前半に解体された)。そして朝鮮民主主義人民共和国,キューバ,インドシナ3国などでも農業の集団化の路線が追求されているが,本項ではソ連と東ヨーロッパの国々について概説する。
執筆者:編集部
ソ連
農業の集団化は,ソ連ではロシア革命直後に部分的に実施されたが,1920年代のいわゆる新経済政策(ネップ)の時期には著しい退潮を見た。ソ連共産党史上,27年12月の第15回党大会が〈集団化の大会〉と呼ばれ,これをきっかけに農業集団化の高揚が始まったとされる。しかし,農民たちは革命によって初めて念願の土地を手にすることができたのであり,彼らの土地に対する執着はきわめて強いものがあった。そのため,現実にはこの集団化政策は,それと同時に始まった農村からの穀物買付量の減少(穀物危機)に促されて加速化し,穀物調達の強化とともに,この政策も強化された。国家への穀物納入の割当量を村の集会で決議として採択させるという,29年に全国化した方式(〈ウラル・シベリア方式〉)は集団化にも適用され,村ぐるみでコルホーズに加入するよう圧力が加えられた。このような政策に反対した党内の右翼反対派が29年11月の党中央委員会総会で最終的に敗北するとともに,集団化は30年春の播種(はしゆ)の時期に照準をあわせて猛烈な速さで遂行された。コルホーズ加入農家の割合は29年中ごろの数%から30年3月の50%以上へとはねあがり,これに反対する農民はクラーク(富農)として追放された。30年3月から4月にかけて党中央が集団化に強制があったことを認め,これを緩めようとしたことから一時退潮を見せたが,30年秋からふたたび開始され,32年には集団化は基本的に完了した。この過程で巨大なコルホーズをつくろうとする政策が失敗するとともに,コルホーズはかつての村(共同体)をもとにしてつくり出されたが,かつての共同体(ミール)の自治の機能は国家機関に奪いとられた。集団化に抵抗した農民による家畜の大規模な屠殺(とさつ),さらに集団化と並行して強化された穀物調達が農民に強いた飢餓状態は,ソ連の集団化史上の大きな汚点となった。
ソ連時代の末期には請負耕作が奨励され,集団請負制や家族請負制が広く導入されて,集団農場離れが進んでいたが,ソ連崩壊後は農民の独立が認められ,大半のコルホーズやソホーズが改編された。
執筆者:奥田 央
東ヨーロッパ
東ヨーロッパの農業集団化は,土地が国有化されているソ連とは違って,農民的土地所有を基礎としていること,また,ソ連のように強い農村共同体には依存していないことが特徴である。そのため農業集団化,すなわち農業生産協同組合化は,生産手段を私有のままにして労働のみを共同で行うタイプから,土地だけの共同化,土地も家畜も共同化するタイプまで多様であった。
東ヨーロッパ各国では,1944年末以来,ドイツの支配から解放される過程で,第2次大戦前の封建的な土地関係を一掃するための土地改革が行われた。ほぼ50ha以上の地主地が収用されて農民に分配され,小土地所有農民が形成された。このあと48年末まで農業の集団化はほとんど見られず,いくつかの自発的な協同組合化が見られたにとどまった。48年6月にコミンフォルムがユーゴスラビアの党を批判し,その農業政策について,個人農の危険と富農の成長を軽視していると指摘したのち,東ヨーロッパ各国では急に農業集団化の動きが始まった。ブルガリアとハンガリーでは48年12月,チェコスロバキアでは49年2月,ルーマニアでは同年3月,ポーランドでは同年4月に,集団化に関する重要な決定がなされた。他方,ユーゴスラビアでも,批判への反動として,49年6月から50年にかけて集団化が急速に進められた。そして集団化は50-53年に集中的な前進を見せた。しかしこの間にソ連に見られたほどではないが,しばしば自発性が無視されたり,性急な集団化が行われたりした。このため,53年ころの集団化率は各国間で不均等な状況がみられ,ブルガリアでは耕地面積の60%ほどであったが,ポーランド,ハンガリーでは10%程度にすぎなかった。
スターリンが死んだ53年から〈スターリン批判〉の行われた56年までは,集団化のテンポも緩み,既存の協同組合の調整が行われた。とくに56年には,ポーランドとハンガリーでは集団農場の解散が認められたりした。一方,ユーゴスラビアでは,1953年以降,集団農場は放棄されていった。1950年代末から再び農業の集団化が開始され,今度は比較的円滑に行われた。ブルガリアでは59年,チェコスロバキアでは60年,ハンガリー,東ドイツでは61年,ルーマニアでは62年,アルバニアでは67年に集団化は一応完了し,耕地の70~80%以上が機械化された大集団農場に組織された。その後70年代にはこの比率は90%をこえた。しかし,ポーランドでは1956年以後も集団化は進まず,耕地の80%以上が個人農である。またユーゴスラビアでも耕地の85%ほどが個人農である。一般に協同組合では,組合員はその土地を提供して協同組合土地フォンドを作り,そこで機械を導入した協同労働を行った。組合からは労働に見あった給料と一定の地代を受け取るほか,自留地の保有が認められた。
1980年代に入って,ハンガリーをはじめとして,経済改革が進み,協同組合のなかでの小規模な契約事業の設立や農民の組合からの離脱が認められた。そして,89-90年の東欧諸国での革命をへて,各国では農業生産協同組合の見直しをしている。
→農業政策
執筆者:南塚 信吾
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報