第2次大戦後の冷戦激化の中で現れ,対日講和条約発効とともにいっそう顕著となった,戦後民主主義を否定し,戦前への復帰をめざす動向をいう。東西両陣営の対立激化にともない,1948年以降アメリカの対日占領政策が転換し,自由主義陣営の一員としての日本経済の復興が進められた。50年に入ると共産党弾圧,職場でのレッドパージが行われ,朝鮮戦争後は公職追放が解除されて旧政財界人等の復帰がはじまり,マッカーサー最高司令官の命令による警察予備隊の編成が再軍備の端緒となった(1950年8月)。51年9月,講和条約の締結で一応独立を回復した日本は,日米安全保障条約にその安全をゆだね,解釈改憲論によるなし崩し的再軍備をすすめ,一方,天野貞祐文相は51年11月14日,教育勅語の戦後版〈国民実践要領〉を提唱した。こうした現象を《読売新聞》が〈逆コース〉と規定して連載(11月2日~12月2日)後,用語として定着した。その後この動向は,警察予備隊から保安隊(1952)へ,そして自衛隊(1954)へという名称の変化にも表れているようにいっそう深化し,政治,社会の常態となってしまった。
執筆者:神田 文人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
第二次世界大戦後の民主化政策を見直し改革に逆行しようとする政策路線。1948年(昭和23)の占領政策の転換に始まるが、系統的になるのは1951年に第3次吉田茂内閣が首相の私的諮問(しもん)機関「政令諮問委員会」の答申に従い、法体制を一変する時期以後である。1952年7月、破壊活動防止法が成立・公布され、政府に「暴力主義的破壊活動」を行う団体を規制・解散させる権限を与え、公安調査庁が設立された。労組・知識人・学生自治会などは「治安維持法の再来」と反対し、国民の間に「逆コース」と非難する風潮が高まった。同年4月、吉田首相は国会で「自衛のための戦力は合憲」と答弁、7月には保安庁法を公布、10月、警察予備隊を11万に増強し、7590名の海上警備隊を加えて保安隊を創設し、1954年には米国から「相互防衛援助協定」による軍事援助を受け、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊からなる自衛隊を発足させ、再軍備に踏み切った。1956年、教育委員の公選制から任命制への転換も、この一環とされる。
[佐々木隆爾]
『J・ダワー著、大窪愿二訳『吉田茂とその時代』上下(中公文庫)』
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