日本の芸能,音楽の一系統。紀州の道成寺伝説を扱って安珍・清姫を登場させるが,能の《道成寺》の影響を受けているものが多い。単に《道成寺》と称するもの,題名中に〈道成寺〉の語を含むもののほか,清姫が蛇身となって日高川を渡り道成寺へ安珍を追うことから〈日高川〉を題名に含むものもある。
(1)歌舞伎舞踊およびその伴奏の三味線音楽 《道成寺》は能の演目の中でも重い曲だが,筋が大衆向きで華やかだったため,早くから舞踊化された。その方法は能の直訳ではなく,道成寺という名称と,女が寺へ来て僧をあざむき舞を舞い,すきを見て鐘に飛び込む形式を採り入れただけで,ほとんどが他の筋立てをもった通し狂言の一部になっていた。〈浅間物〉〈双面(ふたおもて)物〉〈石橋(しやつきよう)物〉などと組み合わされたものがあったが,場所は紀州の道成寺で,鐘供養に清姫の亡霊が白拍子姿で現れるという,安珍・清姫の伝説が中心的な筋立てとして残った。戦後も今日まで,たとえば《雪の道成寺》《豊後道成寺》のごとく,道成寺舞踊が新作されているが,江戸時代は能の模倣を避けようとし,明治以後は能に近い演出が用いられ,現在はそれらが交流しながら多様な道成寺物が演じられている。歌舞伎舞踊最古の記録は,延宝年間(1673-81),2世玉川千之丞所演のもの。元禄期(1688-1704)に入ってからは榊山小四郎および初世水木辰之助の〈鐘入りの所作〉が名高く,ほかにも京,大坂,江戸で十数種演じられた。が,まとまった舞踊劇として完成したのは,1731年(享保16)3月江戸中村座の《無間鐘新道成寺(むけんのかねしんどうじようじ)》である。通称《傾城道成寺》《中山道成寺》の本曲は,《傾城福引名護屋》という不破名古屋狂言の二番目に演じた長唄もので,初世瀬川菊之丞により,後世の道成寺形式の基礎をつくった。菊之丞はこの曲を再度改訂し,44年(延享1)3月中村座で《百千鳥(ももちどり)娘道成寺》と題し,傾城を娘に直して上演。これらを集大成し,道成寺物の決定版となったのが,53年(宝暦3)3月中村座で初世中村富十郎が演じた《京鹿子娘道成寺》(《娘道成寺》)で,以後,他の系統と合したものや,《奴道成寺》ほかの変型物を生んだ。幕末の《紀州道成寺》は素(す)の長唄として作曲されたものであるが,能に近い振りがつけられている。
(2)人形浄瑠璃,歌舞伎狂言の一系統 安珍・清姫伝説の劇化では,1742年(寛保2)8月大坂豊竹座初演の《道成寺現在蛇鱗(げんざいうろこ)》が完成されたものだが,これを粉本とした59年(宝暦9)2月大坂竹本座初演の《日高川入相花王(いりあいざくら)》(通称《日高川》)が有名となり,歌舞伎に移入され,日高川の場は文楽,歌舞伎ともに現在まで上演されている。なお,新内節の《日高川》(本名題《日高川嫉妬の段》)は《道成寺現在蛇鱗》の四段目の景事を新内化したもので,初世鶴賀若狭掾直伝の曲の一つ。
執筆者:戸部 銀作(3)地歌・箏曲 歌舞伎舞踊曲を移曲した芝居歌物の地歌の道成寺物は数多くあったが,現行のものは少なく,手事物を含めて次の3種。(a)《古(こ)/(ふる)道成寺》 単に《道成寺》とも,《鐘巻道成寺》《語り道成寺》《三下り道成寺》ともいう。能の後段のワキの語りを原拠とする。岸野次郎三作曲と伝えられ,榊山小四郎の所作に節付けたともいわれる。芝居歌物でもあり,謡い物ともされる。箏の手は,後に八重崎検校,市浦検校その他各地でさまざまに付けられ,派,地域によって伝承が異なる。(b)《新道成寺》 2世杵屋長五郎・芳沢金七作曲,六次郎改調と伝えられる二上り芝居歌物。謡い物ともされる。水木辰之助所作とする説もあるが,作曲者と年代が合わない。歌本には,《新道成寺》と題するものに,現行曲以外に少なくとも2種の別曲があり,いずれが長五郎らの作曲かはっきりしない。現行のものの箏の手付者は不明。(c)以上のほかに,最も有名な手事物の《新娘道成寺》(《鐘が岬(かねがみさき)》)がある。
執筆者:平野 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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