デジタル大辞泉 「瀬川菊之丞」の意味・読み・例文・類語
せがわ‐きくのじょう〔せがは‐〕【瀬川菊之丞】
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歌舞伎(かぶき)俳優。屋号浜村屋。俳名は代々路考(ろこう)。
[服部幸雄]
(1693―1749)通称浜村屋路考。上方(かみがた)の色子(いろこ)出身で初め瀬川吉次(きちじ)といったが、1709年(宝永6)瀬川菊之丞と名のって初舞台。享保(きょうほう)(1716~36)後期を代表する女方(おんながた)で、1730年(享保15)江戸に下る。とくに所作事(しょさごと)に優れ、『無間(むけん)の鐘』や『石橋(しゃっきょう)』の所作事を大成した。『古今役者論語魁(さきがけ)』に入っている彼の芸談にみられるように、日常生活を徹底した女性として暮らすことを実践し、初世芳沢(よしざわ)あやめの考えを進めた、女方技術初期の大成者といえる。
[服部幸雄]
(1741―73)通称王子(おうじ)路考。初世の養子。1756年(宝暦6)2世を襲名。江戸生まれの名女方として人気は抜群で、路考茶、路考結(むすび)、路考髷(まげ)、路考櫛(くし)などの流行を引き起こした。初世に劣らぬ美貌(びぼう)で、地芸と所作、時代と世話のいずれにも優れていた。
[服部幸雄]
(1751―1810)後名路考、仙女(せんにょ)。通称仙女路考。振付師市山七十郎(しちじゅうろう)の次男で初世瀬川如皐(じょこう)の実弟。1773年(安永2)大坂から江戸に下り、翌年3世を襲名。82年(天明2)には江戸の俳優の最高位にランクされ、のち女方としては異例の座頭(ざがしら)にもなった。「浜村屋大明神」とも尊称された人。美貌で口跡(こうせき)優れ、地芸・所作事ともによかった。
[服部幸雄]
(1802―32)通称多門路考。3世の女婿瀬川路三郎の次男。文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)の女方として人気があった。とくに色女方を得意にした。
[服部幸雄]
(1907―76)前名瀬川仙魚、2世菊次郎。1832年(天保3)以後絶えていた瀬川家を再興し、1933年(昭和8)6世菊之丞を名のった。その前年前進座に参加、女方・二枚目から老け役まで幅広い器用な芸で活躍した。
[服部幸雄]
(1957― )本名外村実。前進座付属養成所出身で前名山村邦次郎。2001年(平成13)7世菊之丞を名のる。立役(たちやく)と女方を兼ねる。
[服部幸雄]
『郡司正勝校注『古今役者論語魁』(『日本思想大系61 近世芸道論』所収・1972・岩波書店)』
歌舞伎俳優。屋号は浜村屋。俳名は路考。(1)初世(1693?-1749・元禄6?-寛延2) 幼名浜村屋吉次,前名瀬川吉次。1712年(正徳2)瀬川菊之丞を名のり初舞台。28年(享保13)2月京の市山座《けいせい満蔵鑑(まくらかがみ)》の《無間(むけん)の鐘》で大当りをとり,30年初めて江戸へ下った。44年(延享1)に極上上吉に位付され三都随一の女方と立てられた。当り役は《石橋(しやつきよう)》《道成寺》《女鳴神》など。《古今役者論語魁》の中に芸談が収められている。(2)2世(1741-73・寛保1-安永2) 幼名権次郎,前名2世吉次。武州王子に生まれ,〈王子路考〉と通称。1756年(宝暦6)菊之丞を襲名。58年に中村座で立女方となり,非常な人気を得て,路考茶,路考結びなどさまざまな風俗の流行を生んだ。美貌で愛嬌にとみ地芸と所作,時代世話を兼ねた。当り役は《菅原》の八重,《曾我》の虎,《忠臣蔵》のお軽,《鷺娘》《無間の鐘》など。(3)3世(1751-1810・宝暦1-文化7) 市山七十郎の次男。幼名七之助,前名瀬川富三郎。別号東籬(とうり)園。後名路考,仙女。通称は〈仙女路考〉。1773年(安永2)大坂から江戸へ下り,翌74年11月菊之丞を襲名。82年(天明2)総巻軸に位付けられ,1808年(文化5)に女方として異例の座頭の地位を占めた。美貌で口跡よく地芸と所作を兼ね,1780年(安永9)から〈大明神〉と尊称された。当り役は《道成寺》《石橋》《無間の鐘》《廿四孝》の八重垣姫など。(4)4世(1782-1812・天明2-文化9) 前名坂東千之助,中村千之助,瀬川菊之助,瀬川路之助。通称〈猿屋路考〉。1807年(文化4)菊之丞を襲名,立女方となる。地芸と所作を兼ね,娘方と女房役を得意とした。当り役は《妹背山》の雛鳥とお三輪,《躄仇討》の初花など。(5)5世(1802-32・享和2-天保3) 前名瀬川多門。通称〈多門路考〉。1815年(文化12)菊之丞を襲名,17年河原崎座の立女方となる。時代,世話を兼ね色女方に適した。当り役は《妹背山》のお三輪,《五大力》の小万,《道成寺》など。(6)6世(1907-76・明治40-昭和51) 前名瀬川仙魚,2世瀬川菊次郎。1933年菊之丞を襲名。1932年前進座へ参加,以来,女方,二枚目から実悪,老け役まで広い芸域で活躍。当り役は《俊寛》の瀬尾,《阿部一族》の弥一右衛門など。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
大正・昭和期の歌舞伎俳優
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…《菅原伝授手習鑑》《仮名手本忠臣蔵》《義経千本桜》をはじめ《夏祭浪花鑑》《双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)》《一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)》《源平布引滝》など,現代の歌舞伎における〈丸本物〉の代表的レパートリーになっている作品の大半のものは,この時期に創作され,ただちに歌舞伎化されたものである。 このころ,初世瀬川菊之丞,初世中村富十郎ら女方の名優たちの活躍によって,〈所作事〉が確立する。所作事は女方のものとされ,いずれも長唄を地とした。…
…振事は,歌舞伎舞踊の動きが物真似的な〈振り〉にあることから,また景事はとくに上方で,道行の景色を舞うことからいう。享保から宝暦期(1716‐64)に初世瀬川菊之丞,初世中村富十郎によって女方芸として洗練され,安永・天明期(1772‐89)には9世市村羽左衛門,初世中村仲蔵ら立役が進出し浄瑠璃所作事の隆盛をみ,また文化・文政期(1804‐30)に至って〈兼ねる〉役者の3世坂東三津五郎,3世中村歌右衛門らがいくつもの役柄を続けて踊る変化(へんげ)物を流行させた。所作事の上演には,花道,本舞台に所作舞台を敷き,出語り,出囃子となることがある。…
…が,まとまった舞踊劇として完成したのは,1731年(享保16)3月江戸中村座の《無間鐘新道成寺(むけんのかねしんどうじようじ)》である。通称《傾城道成寺》《中山道成寺》の本曲は,《傾城福引名護屋》という不破名古屋狂言の二番目に演じた長唄もので,初世瀬川菊之丞により,後世の道成寺形式の基礎をつくった。菊之丞はこの曲を再度改訂し,44年(延享1)3月中村座で《百千鳥(ももちどり)娘道成寺》と題し,傾城を娘に直して上演。…
…この間に右近源左衛門の《海道下り(かいどうくだり)》,水木辰之助の〈槍踊(やりおどり)〉や《七化け(ななばけ)》などが生まれ,《七化け》は変化(へんげ)舞踊(変化物)の先駆をなした。 享保から宝暦(1751‐64)には,初世瀬川菊之丞と初世中村富十郎が《無間の鐘(むけんのかね)》《石橋(しやつきよう)》《娘道成寺》などの名作を生み,女方舞踊を完成させた。また従来の長唄の伴奏以外に豊後節系の常磐津節・富本節,おくれて清元節など劇場音楽が発達し,物語的な舞踊劇の浄瑠璃所作事が完成,同時に演者も立役や敵役にまで広がって,初世中村仲蔵による《関の扉(せきのと)》《戻駕(もどりかご)》《双面(ふたおもて)》の作を生んだ。…
…五変化所作事《春昔由縁英(はるはむかしゆかりのはなぶさ)》の一曲。演者は3世瀬川菊之丞。作詞者不詳。…
…四変化物の一。初演は長唄と富本の掛合で大切(おおぎり)所作事として5世瀬川菊之丞が演じた。子守が赤子をあやすため,おかめ,恵比須,ひょっとこの三つの面をかわるがわるかぶって踊る軽妙な小品舞踊。…
…第2次世界大戦後,青年劇場運動で注目されたが,49年共産党に集団入党し,民族文化の改良と創造を唱えた。これを契機に商業劇場から一時締め出されたが,講和後,長十郎の《鳴神》,翫右衛門の《俊寛》,5世河原崎国太郎の《切られお富》,5世嵐芳三郎の《寺子屋》,瀬川菊之丞の《阿部一族》などで旺盛な活動を試みた。67年9月思想的対立から長十郎を除名する事件があったが,79年12月歌舞伎座で創立50年記念公演を行い,82年10月東京・吉祥寺の劇団敷地内に前進座劇場を開場。…
…1629年(寛永6)に徳川幕府が歌舞伎に女優が出演することを禁じたため,能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ,現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ,瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように暮らし,これが幕末まで女方の習慣となった。…
…同年に俳優荻野八重桐が隅田川で舟遊び中に溺死したという事件があり,これを基に書いたものである。地獄の閻魔(えんま)大王が俳優瀬川菊之丞にほれ,これを地獄に連れてくるよう竜王に命じる。竜王はその役目を河童に言いつけ,河童は若侍に変じて隅田川に舟遊び中の菊之丞に近づく。…
※「瀬川菊之丞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」