遠山庄(読み)とおやまのしよう

日本歴史地名大系 「遠山庄」の解説

遠山庄
とおやまのしよう

恵那郡内の近衛家領庄園で、地頭遠山氏。庄域はたいへん広く、現在の瑞浪みずなみ市の一部から恵那市・中津川市・土岐郡の一部、さらに木曾の一部(馬籠、現長野県木曾郡山口村)にまで及んでいたという(中津川市史)史料には大井おおい佐々良木さざらぎ(現恵那市)苗木なえぎ(現中津川市)手向とうげ(現山岡町)などの地名がみえる。建長五年(一二五三)一〇月二一日の近衛家所領目録(近衛家文書)によれば、もと高陽院領であったが、寛元四年(一二四六)八月二五日に近衛基通から道経の妻武蔵に分け与えられ、同年一〇月八日には基通の娘の竜前の沙汰とするよう示された。しかし建長五年の段階では、遠山庄は武蔵が知行する一二ヵ所のなかに入っていた。遠山庄に対する実質的な支配権は近衛家にはなく、現地は地頭の遠山氏が掌握し、地頭請所のようになっていたと考えられている。庄名の初見は「吾妻鏡文治元年(一一八五)五月一日条で、木曾義仲の妹で北条政子猶子になっていた宮菊という女性が、都で問題を引起したにもかかわらず、源頼朝は彼女を哀れんで鎌倉へ呼寄せたうえ、美濃国遠山庄内一村を与えたという。「吾妻鏡」同年三月三日条には、宮菊がそれまで美濃国にいたこと、その理由が「一村有御志」というものであったことを伝えている。宮菊はもともと遠山庄内になんらかの権利を有していたのかもしれない。

遠山氏と当庄の関係は、治承四年(一一八〇)源頼朝が伊豆で挙兵したとき頼朝から長刀を与えられ、伊豆国目代山木判官兼隆の首を討取った加藤次景廉が、文治―建久(一一八五―九九)頃に勲功の賞として遠山庄の地頭職を与えられたことに始まる。


遠山庄
とおやまのしよう

遠山庄が文献の上に現れてくるのは、「吾妻鏡」文治元年(一一八五)五月一日条で、「故伊予守義仲朝臣妹公字宮、自京都参上、(中略)仍所賜美濃国遠山庄内一村也」と、源頼朝が木曾義仲の妹宮菊に美濃国遠山庄の内の一村を宛行ったとする記事である。

この遠山庄は近衛家の所領で、建長五年(一二五三)の近衛家所領目録には、「高陽院領内、美濃国遠山庄」とある。現在の岐阜県恵那えな中津川なかつがわ両市及び恵那郡から木曾郡山口やまぐち村・南木曾なぎそ田立ただちにかけての地域を占めていたもので、建保三年(一二一五)の「紙本墨書大般若波羅蜜多経」(板野五良三良氏蔵)全一〇〇巻のほとんど全部に「美濃州遠山庄馬籠村法明寺常住」と書かれており、また応永四年(一三九七)の「大般若波羅蜜多経」(大桑村の定勝寺蔵)の巻第一〇〇の奥書には「濃州恵那郡遠山庄苗木郷室住村」とあり、そのほか「吾妻鏡」「愚管記」「季瓊日録」などにも遠山庄の名が出てくる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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