中国,唐代の名将。李光弼(りこうひつ)と並び称される。華州鄭県(陝西省華県)の人。北朝系官僚の家柄で,父郭敬之は州刺史を歴任した。郭子儀は武挙に合格,武官の道に進んだ。唐朝の羈縻(きび)政策が破綻に瀕していた天宝年間(742-756),河曲地方の辺境軍司令官(軍使)を歴任したが,安史の乱が起こると東方に出撃し,河北一帯を奪回した。さらに敵の本拠范陽をつこうとしたが,潼関が突破されて長安が占領されたため,急きょ粛宗のもとに赴き,反攻作戦を指導した。かくて長安と洛陽を奪回したが,宦官一派にその功を忌まれ一時解任された。安史の乱後,宦官勢力と反目する僕固懐恩が北族兵を率いて挙兵すると郭子儀が起用されてこれを平定し,朝廷は危機を脱した。代宗は郭子儀を尚書令に任じて賞し,徳宗が即位すると〈尚父(しようほ)〉(父のごとく尚(たつと)ぶの意)の号を賜い,太尉・中書令を授けた。郭子儀は反乱軍将や北族兵の間にも信望があってよく事態を収拾し,宦官一派の中傷にもかかわらず一貫して唐朝に忠誠をつくし,その危機克服に貢献した。
執筆者:谷川 道雄
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中国、唐の名将。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。華州(河南省)出身の文官の子であったが武官として立身。754年北辺の天徳軍使兼朔方節度(さくほうせつど)右兵馬使となり、翌年起こった安禄山(あんろくざん)の乱に、河東節度使李光弼(りこうひつ)とともに官軍を率いて河北を転戦、長安陥落後、西北の霊武に逃れた粛宗の即位後は、皇太子広平王(後の代宗)の下で副元帥となり官軍の総指揮にあたった。ウイグルの援軍を得て756年長安・洛陽(らくよう)を奪回、国家再建の功労者と賞せられる。
その後宦官(かんがん)の魚朝恩らのため一時失脚させられたが、代宗朝に入り、吐蕃(とばん)、ウイグル、吐谷渾(とよくこん)、タングートなどの異民族連合軍の侵攻や、これと通謀した僕固懐恩(ぼっこかいおん)の反乱が起こり、ふたたび登用され、765年ウイグル軍を寝返らせて吐蕃を破り危機を救った。徳宗即位(779)後、尚父(しょうほ)の称号、太尉中書令の最高官を賜り、汾陽(ふんよう)王に封ぜられる。子の郭曖(かくあい)は代宗の娘昇平公主をめとり、孫は憲宗の妃となり、その子は穆宗(ぼくそう)となった。
[菊池英夫]
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