郭子儀(読み)カクシギ(英語表記)Guō Zǐ yí

デジタル大辞泉 「郭子儀」の意味・読み・例文・類語

かく‐しぎ〔クワク‐〕【郭子儀】

[697~781]中国代の武将。華州(陝西せんせい省)の人。安史の乱を平定し、のち吐蕃とばん侵入を退けた。最高官の太尉中書令に任ぜらる。

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精選版 日本国語大辞典 「郭子儀」の意味・読み・例文・類語

かく‐しぎ クヮク‥【郭子儀】

中国、唐代の武将。安祿山の乱で討伐に活躍し、都長安を奪回。のち、吐蕃(とばん)の侵入を防いだ。玄宗粛宗代宗徳宗の四代に仕える。(六九七‐七八一

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改訂新版 世界大百科事典 「郭子儀」の意味・わかりやすい解説

郭子儀 (かくしぎ)
Guō Zǐ yí
生没年:697-781

中国,唐代の名将李光弼(りこうひつ)と並び称される。華州鄭県(陝西省華県)の人。北朝系官僚の家柄で,父郭敬之は州刺史を歴任した。郭子儀は武挙に合格,武官の道に進んだ。唐朝の羈縻(きび)政策が破綻に瀕していた天宝年間(742-756),河曲地方の辺境軍司令官(軍使)を歴任したが,安史の乱が起こると東方に出撃し,河北一帯を奪回した。さらに敵の本拠范陽をつこうとしたが,潼関が突破されて長安が占領されたため,急きょ粛宗のもとに赴き,反攻作戦を指導した。かくて長安と洛陽を奪回したが,宦官一派にその功を忌まれ一時解任された。安史の乱後,宦官勢力と反目する僕固懐恩が北族兵を率いて挙兵すると郭子儀が起用されてこれを平定し,朝廷は危機を脱した。代宗は郭子儀を尚書令に任じて賞し,徳宗が即位すると〈尚父(しようほ)〉(父のごとく尚(たつと)ぶの意)の号を賜い,太尉・中書令を授けた。郭子儀は反乱軍将や北族兵の間にも信望があってよく事態を収拾し,宦官一派の中傷にもかかわらず一貫して唐朝に忠誠をつくし,その危機克服に貢献した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「郭子儀」の意味・わかりやすい解説

郭子儀
かくしぎ
(697―781)

中国、唐の名将。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。華州(河南省)出身の文官の子であったが武官として立身。754年北辺の天徳軍使兼朔方節度(さくほうせつど)右兵馬使となり、翌年起こった安禄山(あんろくざん)の乱に、河東節度使李光弼(りこうひつ)とともに官軍を率いて河北を転戦、長安陥落後、西北の霊武に逃れた粛宗の即位後は、皇太子広平王(後の代宗)の下で副元帥となり官軍の総指揮にあたった。ウイグル援軍を得て756年長安・洛陽(らくよう)を奪回、国家再建の功労者と賞せられる。

 その後宦官(かんがん)の魚朝恩らのため一時失脚させられたが、代宗朝に入り、吐蕃(とばん)、ウイグル、吐谷渾(とよくこん)、タングートなどの異民族連合軍の侵攻や、これと通謀した僕固懐恩(ぼっこかいおん)の反乱が起こり、ふたたび登用され、765年ウイグル軍を寝返らせて吐蕃を破り危機を救った。徳宗即位(779)後、尚父(しょうほ)の称号、太尉中書令の最高官を賜り、汾陽(ふんよう)王に封ぜられる。子の郭曖(かくあい)は代宗の娘昇平公主をめとり、孫は憲宗の妃となり、その子は穆宗(ぼくそう)となった。

[菊池英夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「郭子儀」の意味・わかりやすい解説

郭子儀
かくしぎ
Guo Zi-yi; Kuo Tzǔ-i

[生]神功1(697)
[没]建中2(781)
中国,唐中期の武将。河南の人。諡は忠武。偉丈夫で武官として立身し,安史の乱では李光弼 (りこうひつ) とともに唐朝軍を率いて活躍し,第一等の功績をあげたが,宦官に排斥されて兵権を解かれ,不遇の地位におかれた。しかしやがて代宗朝になると再び登用され,僕固懐恩が反して吐蕃 (とばん) ,ウイグルの軍とともに 30万の兵力で侵入すると,その中心兵力の吐蕃を大敗させ,唐朝を危機から救った。大功臣として「尚父」の号を賜わり,太尉,中書令,実封 2000戸にいたった。

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