改訂新版 世界大百科事典 「羈縻政策」の意味・わかりやすい解説
羈縻政策 (きびせいさく)
中国歴代の王朝が周辺民族に対してとった外交政策。羈縻とは,羈(覊)が馬の手綱,縻が牛の鼻綱のことで,そこからつなぎとめる意味に転じた。さらに《史記》の司馬相如伝に漢の武帝の施策にふれ〈皇帝の夷狄(いてき)に対する態度は馬や牛を繫(つな)ぎとめておくように,かかわりを断たない程度にしておくのが筋道である〉とみえるとおり,夷狄を巧みに御していく外交用語となった。要するにあめと鞭を使い分けながら国力の消耗を極力おさえ,ただ中国から離反しないようつかず離れずの関係を維持しながら国家の威信を発揚していく伝統的な対外政策である。この政策が象徴的に現れているのは唐朝のそれであり,たとえば漢北を統御するにあたり薛延陀(せつえんだ)を滅ぼしたあと燕然都護府を置き,その下に六都督府,七州を配して,直接支配を避け各民族の自治を大幅に認めている(羈縻州)。この方策は国家隆盛のときには効果的であるが,いったん国力が弱まれば異民族の離反を招きやすいものであった。
→安史の乱
執筆者:藤善 真澄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報