タングート(読み)たんぐーと(英語表記)Tangut

日本大百科全書(ニッポニカ) 「タングート」の意味・わかりやすい解説

タングート
たんぐーと
Tangut

中国の西北部を中心に6世紀から14世紀ごろまで活躍した民族。チベット系羌(きょう)の一族であり、諸部族に分かれ、7世紀の初めごろから、吐蕃(とばん)(チベット)と青海地方の強国吐谷渾(とよくこん)に挟まれた地域に居住した。拓跋(たくばつ)部の首領拓跋赤辞(せきじ)が、吐谷渾の王家と通婚するに及んで最強の部族となり、タングートの指導権を握った。唐の太宗(在位626~649)の懐柔策によって、タングートは唐に服属し、赤辞は唐朝から李(り)姓を賜った。その後、吐蕃が興隆して吐谷渾を破り、青海地方を領有すると、タンダートも吐蕃に吸収され、その支配下に入ったが、吐蕃への隷属を好まなかった一部のタングート人は、8世紀の後半から青海の地を離れて、北北東に向かい、甘粛(かんしゅく)の東端の慶州に移動。その部族を東山部といい9世紀の中ごろから霊州、塩州の南方山地に移った部族を南山部と称した。拓跋部も慶州に入ったが、8世紀中ごろからさらにオルドスの南部の夏州に移動した。これを平夏部という。

 唐末のタングートは、東山、南山、平夏の3部族に大別される。9世紀の後半、平夏部の首領拓跋思恭(しきょう)が、黄巣(こうそう)の乱を鎮めた功績で唐朝から節度使に任ぜられ、李姓を賜り、その子孫は代々夏州定難軍節度使を世襲した。思恭から9代目に、その承襲をめぐって、宋(そう)に服従した兄の継捧(けいほう)と、全面的に宋に反抗し契丹(きったん)に臣属の礼をとった弟の継遷(けいせん)との間に紛争が起きた。やがて継遷の子徳明(とくめい)が後を継ぎ宋と和解し、徳明の子元昊(げんこう)になって、独立王国西夏(せいか)国が誕生する。1227年チンギス・ハンによって西夏国が滅亡してのち、タングート人は漸次漢族はじめ近隣諸族と融合した。

西田龍雄

『岡崎精郎著『タングート古代史研究』(1972・京都大学東洋史研究会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タングート」の意味・わかりやすい解説

タングート(党項)
タングート
Tangut

6世紀から 13世紀頃まで中国北西辺境に活躍したチベット系民族。自称ウォー。初め四川省北西辺から青海省方面の山地に居住し唐に服属したが,のち離反。吐蕃の強大化につれ甘粛,オルドス方面に移住。唐末にその拓跋 (たくばつ) 氏の族長拓跋思恭は黄巣の乱に唐を助けて夏州節度使を授けられ (881) ,また李姓を賜わった。また五代の紛乱に乗じてその子孫は夏州 (陝西省楡林県北西) を中心に勢力をたくわえ,宋初には一時宋に屈服したが,李継遷の代に独立体制をとり,1038年李元昊 (りげんこう) はついには西夏国を建てた。タングートはおもに牧畜を営み領内の漢人が農業を行なったが,夏州が東西交易の要路にあたったので,遼,宋,金との間の中継貿易によって富を得,これがその繁栄の経済的基礎となった。一方遼,金と宋の力の均衡を巧みに利用,大国の間に伍することができた。しかし強大なモンゴル帝国が興ると,1227年にただちに討滅され,以後は元朝内で色目人の一つとして活躍するにとどまった。ただモンゴル人がチベットをタングートと呼んだため,のちまでそれがチベットの一呼称となった。

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