都々古別神社(読み)つつこわけじんじや

日本歴史地名大系 「都々古別神社」の解説

都々古別神社
つつこわけじんじや

[現在地名]棚倉町八槻

久慈くじ川に臨む河岸段丘に立地。祭神味耜高彦根命・日本武尊。旧国幣中社。中世近世八槻近津やつきちかつ明神と通称され、また棚倉字馬場ばばの同名社を上宮、当社を中宮、現茨城県大子だいご町の近津神社を下宮とし、「近津三社」と総称された。馬場の同名社とともに「延喜式」神名帳の白河郡都都古和気ツツコワケノ神社」(名神大社)に比定され、「大日本国一宮記」は陸奥国の一宮を「都々古和気社大己貴男・高彦根 陸奥白河郡」とする。慶長二年(一五九七)の陸奥国一宮近津大明神縁起(八槻文書)によれば、日本武尊が八溝やみぞ山の東夷を討ったが、武尊を守護して示現した三神は鉾立ほこたて(建鉾山)に隠れた。このため武尊が東方に向け箭を放ち、その箭が着いた箭津幾やつきに都々古和気神社を創建、のち源義家が社号を近津大明神と改め、社殿を建立したという。ただし近津三社がともに弘仁二年(八一一)に新しく開かれた官道(のちの水戸街道)沿いに鎮座することから、これ以後に創建されたとする考えもある。承和八年(八四一)一月二二日、都々古和気神は従五位下に叙された(続日本後紀)。旧社蔵(現在石川町石都々古和気神社蔵)の鰐口銘に、応永一二年(一四〇五)一〇月二〇日の紀年で「奥州高野郡八槻寅尾大明神」とみえ、社蔵の応永一八年一〇月一八日の年紀を有する銅鉢銘に「高野郡南郷八槻近津宮」とある。

明徳三年(一三九二)五月三日の良源二所熊野檀那職譲状(八槻文書。以下同文書は省略)によれば、二所(伊豆・箱根権現)と紀州熊野参詣の檀那職を駒石侍従阿闍梨良源から治部殿が譲り受けているが、治部殿は当社別当大善だいぜん(八槻別当・近津別当とも)の八槻氏とみられる(八槻家系図)

都々古別神社
つつこわけじんじや

[現在地名]棚倉町棚倉

棚倉城跡の北西、字馬場ばばに鎮座。祭神味耜高彦根命・日本武尊。旧国幣中社。中近世には所在地名から馬場都々古別神社とも、また近津ちかつ大明神とも称された。八槻やつきにも同名社があり、両社ともに「延喜式」神名帳の白河郡「都都古和気ツツコワケノ神社」(名神大社)に比定される。社蔵の文禄三年(一五九四)の縁起に、東夷を鎮定した日本武尊が三森みもり(現表郷村)の都都古山(建鉾山)に創祀、のち坂上田村麻呂が大同二年(八〇七)に馬場(のちの伊野上村の地)に移したとある。しかし当社と八槻の同名社、現茨城県大子だいご町の近津神社がともに弘仁二年(八一一)に新しく開かれ、高野たかの長有ながありの二駅が設置された官道(のちの水戸街道)沿いに鎮座することから、これ以後に創建されたとする考えもある。承和八年(八四一)一月二二日、都々古和気神は従五位下に叙された(続日本後紀)

中世には神仏混淆して山岳信仰を取入れて修験化、別当(不動院)高松家が当社を統括した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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