明治から昭和にかけて発行された新聞。1884年9月小西義敬により夕刊紙《今日新聞》として東京で創刊された。初代主筆は仮名垣魯文(かながきろぶん)。88年11月《みやこ新聞》,さらに翌年2月から《都新聞》と改題し,朝刊紙となった。92年,改進党の楠本正隆の買収後,政治的には改進党寄り,後には政友会系といわれたが,党派色は薄く日露講和反対運動で,マスコミの大勢に従った程度にとどまった。内容は歌舞伎,花柳界などの通俗記事と小説の充実を本領とし,黒岩涙香の翻案小説,伊原青々園の探偵実話,劇評などにより,東京下町を中心に読者を集めた。1919年福田英助が買収,福田は花柳記事の縮小と趣味・商況記事の振興など紙面刷新に努めた。一方23年には《大阪新報》を併合,《大阪都新聞》を発行したが振るわず,26年同紙は休刊となった。《都新聞》は関東大震災の際,焼失を免れた新聞3社のうちの1社であったという幸運にも恵まれ,また大正末・昭和初期の大阪系紙(《朝日新聞》《毎日新聞》)の東京大進出の際も特色ある紙面作りによって切り抜け,比較的順調に発展した。36年10月からは夕刊発行を始めている。同紙はほぼ一貫して小説に力を注いだが,大正・昭和期には中里介山《大菩薩峠》,徳田秋声《縮図》などの有名作が掲載された。42年10月新聞事業令による統合により《国民新聞》と合併し,《東京新聞》となった。
執筆者:佐々木 隆
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第二次世界大戦前、東京で発行されていた日刊紙。前身は1884年(明治17)9月25日に創刊された『今日(こんにち)新聞』で、仮名垣魯文(かながきろぶん)が主筆の夕刊紙。88年11月16日『みやこ新聞』と改題、朝刊の劇場機関紙となり、黒岩涙香(るいこう)が主筆として社説、探偵小説を掲載した。翌年2月1日『都新聞』と改題、以後、文学、芝居、演劇に重点を置き、花柳界の広告を載せるなど独特の編集方針で庶民の人気を集めた。92年5月、楠本正隆(くすもとまさたか)(1838―1902)の所有となり、改進党色を帯びたため、大正に入ると経営不振に陥った。1919年(大正8)12月2日、足利(あしかが)の機業家福田英助が買収、商況欄に力を入れ、生糸欄、ラジオ欄を設けるなど紙面を刷新するとともに、独立自営を信条に健全な経営を続け、関東大震災(1923)後の東京紙の衰退のなかで独自の発展の途をたどった。1942年(昭和17)10月1日戦時新聞統合で『国民新聞』と合併、『東京新聞』となる。
[春原昭彦]
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前身は1884年(明治17)創刊の夕刊紙「今日(こんにち)新聞」で,88年11月16日「みやこ新聞」に改題,翌年2月1日「都新聞」となった。江戸趣味と黒岩涙香(るいこう)の探偵小説で売りだしたが,92年7月楠本正隆が社を買収後,主筆黒岩ら十数人が退社。以後は大谷誠男・遅塚麗水(ちづかれいすい)・伊原青々園(せいせいえん)らの記者が活躍,花柳界記事・劇評・書評・投書欄の充実,中里介山「大菩薩峠」などの連載小説で東京下町の読者を獲得した。1919年(大正8)福田英助に経営が移り株式会社化,低迷していた部数を伸ばした。42年(昭和17)10月1日,新聞統合により「国民新聞」と合併し「東京新聞」となった。最盛期の発行部数約15万部。
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…再建のため石川武美,根津嘉一郎があいついで資本参加し,1926年株式会社に改組したが,もはや挽回できず,29年蘇峰は退社し,大島宇吉の経営に移った。42年新聞統合政策のため《都新聞》と合併し《東京新聞》となった。【有山 輝雄】。…
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