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酒井忠世 さかい ただよ

美術人名辞典の解説

酒井忠世

江戸前期の老中。三河生。幼名は、万千代・与四郎、のち右兵衛大夫・雅楽頭と称す。父は酒井氏雅楽頭系嫡流七代目重忠。徳川家康・秀忠に仕え、大坂冬・夏の陣に出陣。父の遺領を継ぎ上野国厩橋城主となり、12万石余を領した。慶長10年から寛永11年まで29年間にわたり老中を勤め幕政を主導した。寛永13年(1636)歿、64才。

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デジタル大辞泉の解説

さかい‐ただよ〔さかゐ‐〕【酒井忠世】

[1572~1636]江戸初期の幕臣。老中・大老。上野厩橋(うまやばし)城主。2代将軍秀忠から3代家光の前半にかけて幕政の中心として活躍。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

酒井忠世 さかい-ただよ

1572-1636 江戸時代前期の大名。
元亀(げんき)3年6月5日生まれ。酒井重忠(しげただ)の子。徳川家康につかえ,関ケ原の戦い,大坂の陣では秀忠(ひでただ)にしたがう。元和(げんな)3年上野(こうずけ)(群馬県)厩橋(うまやばし)(前橋)藩主酒井家2代となる。土井利勝(としかつ)らとともに老中として国政にあたる。のち加増され12万2500石余。寛永13年3月19日死去。65歳。三河(愛知県)出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

酒井忠世

没年:寛永13.3.19(1636.4.24)
生年:元亀3(1572)
江戸初期の老中。雅楽頭。名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ,天正18(1590)年に徳川秀忠の家老となり,慶長後半から寛永11(1634)年まで老中として幕閣の中枢にあって幕政を主導した。寛永3年には従四位下侍従に叙任,上野国厩橋(前橋)城主として知行高も最終的に12万石余を領した。元和1(1615)年から土井利勝らと共に徳川家光の補導役となったが,家光は平素口数少なく厳正重厚な忠世を最も畏れたという。秀忠の没後忠世は家光から疎まれる傾向にあり,寛永11年の家光上洛では江戸城留守居を命じられたが,閏7月西丸から出火し,その責めを負って寛永寺に蟄居した。これが家光の勘気に触れ老中を解任となった。

(小池進)

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世界大百科事典 第2版の解説

さかいただよ【酒井忠世】

1572‐1636(元亀3‐寛永13)
織豊期に徳川家康に仕えた武将。江戸期には譜代大名となる。三河国西尾に生まれる。幼名は万千代,字は与四郎。右兵衛大夫,雅楽頭(うたのかみ)を名のる。父は重忠。母は松平忠輝の家臣山田重辰の女。家康に仕え,1590年(天正18)8月秀忠に付属され家老となる。1601年(慶長6)5000石を加増,1万石を領する。17年(元和3)7月父の遺領を継ぎ厩橋(まやばし)城を居城とし,22年には12万2500石余を領した。

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大辞林 第三版の解説

さかいただよ【酒井忠世】

1572~1636) 江戸初期の老中・大老。上野こうずけ厩橋藩主。忠清の祖父。秀忠・家光を補佐し、家康死後の幕政に重きをなした。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

酒井忠世
さかいただよ

[生]元亀3(1572).三河
[没]寛永13(1636).3.19. 江戸
江戸時代初期の大老。重忠の子。幼名は万千代,与四郎。徳川家康に仕え 3000石を領した。天正 16 (1588) 年従五位下に叙され,右兵衛大夫を称した。徳川第2代将軍秀忠の家老となり,慶長6 (1601) 年上野国那波1万石に封じられ,同 14年1万石を加増,大坂の役 (→大坂の陣 ) 後,さらに3万 2000石を加増された。元和3 (17) 年上野国伊勢崎城主,家督を継ぎ8万 5000石となる。この間,老中に就任。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

酒井忠世
さかいただよ
(1572―1636)

江戸初期の譜代(ふだい)大名。上野(こうずけ)(群馬県)前橋城主。老中。徳川氏の重臣雅楽助(うたのすけ)酒井氏の嫡流、三河(愛知県)西尾城主重忠(しげただ)の長子として西尾で生まれる。1590年(天正18)徳川秀忠(ひでただ)の家老となり、秀忠が2代将軍となると、土井利勝(としかつ)、大久保忠隣(ただちか)、本多正信(まさのぶ)らとともに補佐の中心となった。1617年(元和3)遺領を相続し、これまでの知行(ちぎょう)とあわせて8万5000石を領し前橋を居城とした(のち加増を受け12万石余となる)。23年家光(いえみつ)付きとなり、同年家光が将軍となると、またよく補佐の任を果たした。32年(寛永9)大御所(おおごしょ)秀忠没後は江戸城西の丸の守衛を命ぜられ、ここに住した。34年家光上洛(じょうらく)中に失火により西の丸が焼け、その後の措置を責められ一時出仕を止められたが、まもなく赦(ゆる)されている。[林 亮勝]
『進士慶幹著「酒井忠世と土井利勝」(『江戸幕府 上』所収・1964・人物往来社)』

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