「古事記‐中」に倭建命の死に際して「駅使(はゆまづかい)」を貢上したとの記事があり、大宝令以前にも①は存在したか。駅家が律令制の崩壊とともに衰微し、鎌倉時代以降、代わって宿が発達すると、官制に限らず、民間の宿駅の馬についても用いられるようになった。
日本古代の駅伝制で駅に配置した馬。公務出張の官人や公文書伝送の駅使が前の駅から駅馬に乗り駅子に案内されて駅家(うまや)へ到着すると,駅長は前の駅の駅馬をその駅子に送り返させ,当駅の駅馬に駅子を添えて次の駅まで送らせる。貸与する駅馬数は利用者が六~八位なら3匹,初位以下なら2匹というように,位階によって定まっているが,案内する駅子は1人だったらしい。駅馬の各駅配置数は,山陽道が20匹,東海・東山両道が10匹,北陸・山陰・南海・西海の4道が5匹という規準だが,国司の判断で実情に即した増減が可能であり,10世紀初頭の延喜式では40匹から2匹までが全国で402の駅に配置され,総数は4000匹に達した。これら駅馬は〈筋骨強壮〉でなければならず,国司が毎年検査して,年を取りすぎたり病気だったりすると市場で買い換え,代価の不足分は駅稲で支払う。駅家や利用者の不注意で死損させれば,もちろん原因者に補償させるのである。
→駅伝制
執筆者:青木 和夫
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…日本古代の駅伝制で,駅の諸業務に従事した戸。駅家(うまや)のある村落から駅馬の数に対応して指定されたので,山陽道や東海・東山両道のように1駅あたりの駅馬の多い地方では,しばしば駅戸だけで50戸1郷の行政村落を構成したらしく,〈駅家郷〉とよばれた郷が少なくない。駅戸は,中流以上の戸ならば1戸につき1匹ずつ駅馬を飼い,貧富を問わず成年男子は駅子(えきし)という馬丁として駅馬に乗る官人を次の駅まで送迎し,駅田(えきでん)を無償で耕作し,駅稲(えきとう)を春に貸し付けられて秋には5割に及ぶ利稲とともに駅に納めるなどの義務を負っているので,庸(よう)と雑徭(ぞうよう)が免除される。…
…まず駅制の萌芽は,6世紀末から7世紀前半にかけて大和朝廷の全国支配が進み,大陸に隋・唐の大帝国が出現して朝鮮半島を圧迫しはじめたころ,北九州の出先官庁と大和朝廷との間の連絡を緊密にする必要が生じ,朝廷の発行した駅鈴(えきれい)を携帯した官人に途中の国造が便宜をはかるという形で発生したと思われる。大化改新後,7世紀後半の律令国家形成期には,駅鈴によって駅馬を利用しうる道を北九州との間だけでなく東国へも延ばしはじめたようであるが,8世紀初頭の大宝令では唐を模範とした駅制を全国に拡大することとした。すなわち朝廷は特別会計の駅起稲(えききとう)・駅起田(えききでん)(後の養老令では駅稲・駅田)を各国に設置させ,これを財源として畿内の都から放射状に各国の国府を連絡する東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の7道をそのまま駅路とし,駅路には原則として30里(約16km)ごとに駅を置かせ,駅ごとに常備すべき駅馬は大路の山陽道で20匹,中路の東海・東山両道で10匹,他の4道の小路では5匹ずつとし,駅の周囲には駅長や駅丁を出す駅戸を指定して駅馬を飼わせ,駅家(うまや)には人馬の食料や休憩・宿泊の施設を整え,駅鈴を貸与されて出張する官人や公文書を伝送する駅使が駅家に到着すれば,乗りつぎの駅馬や案内の駅子を提供させることとした。…
…前近代に宿駅の間を往復し旅行者や貨物を逓送した馬。
[古代]
日本古代の駅伝制では,中央の兵部(ひようぶ)省の所管で緊急の公務出張や公文書伝送にのみ使われた駅馬のほかに,全国各郡の郡家(ぐうけ)に5疋(ひき)ずつの伝馬を用意し,国司の赴任や国内巡視などに使うことにしていた。この伝馬は,官営の牧場で繁殖させ,軍団の兵士の戸で飼育させる官馬の中から選ぶが,適当な官馬がなければ郡稲という財源で民間から購入し,郡家付近の豊かで人手のある戸に飼育させる。…
※「駅馬」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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