出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
秋田県南西端、由利郡(ゆりぐん)にあった旧町名(象潟町(まち))。現在は、にかほ市象潟町で、市の南部を占める。1896年(明治29)塩越(しおこし)村が町制施行して象潟町成立。1955年(昭和30)上浜(かみはま)、上郷(かみごう)の2村と合併。2005年(平成17)仁賀保(にかほ)、金浦(このうら)の2町と合併して市制施行、にかほ市となった。象潟という地名は、かつてこの地で蚶貝(きさがい)が多くとれたことに由来し、蚶方(きさかた)から象潟に変わったといわれる。JR羽越本線と国道7号(酒田国道)が日本海沿いをほぼ並行して走る。一帯は鳥海火山(ちょうかいかざん)による泥流地形で、海食作用で泥層が削られて岩島となり、八十八潟九十九島の景観をみせていた。そのころの自然美は松尾芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』にも記されている。1804年(文化1)6月4日の直下型地震で土地が2.5メートル隆起し、潟は平地となった。現在も水田の中にマツの生えた小島が散在する。このあたりは鳥海国定公園の一部であり、また国の天然記念物に指定されている。蚶満寺(かんまんじ)には芭蕉の句碑があり、奈曽の白瀑谷(なそのしらたきだに)は国の名勝。米作主体の農業のほか、沿岸漁業や栽培漁業も行われている。
[宮崎禮次郎]
『『象潟町史』(1973・象潟町)』▽『『象潟町史 資料編・通史編』全4巻(1996~2002・象潟町)』
秋田県南西部,にかほ市の旧象潟町から北隣の同市の旧金浦(このうら)町南部に及んだ入江で,俗に八十八潟九十九(つくも)島といわれた。きさかた(蚶方)の地名は,古く《延喜式》にみえるが,象潟は北条時頼の寄進状に初出という。ここは鳥海山西麓の泥流末端であるが,長年の海食は泥土を削り去って,松林をのせた岩塊群を,入江に島状に浮上させた。鳥海山を背景にしたこの景観は,歌枕として広く知られ,能因法師は〈世の中はかくても経けり象潟や海人(あま)の苫屋をわが宿にして〉(《後拾遺集》)の歌を残している。芭蕉は《おくのほそ道》で〈松島は笑ふがごとく象潟はうらむがごとし〉と述べ,〈象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花〉の句を詠んだ。県指定文化財の《象潟図屛風》は当時を克明に描写する。1804年(文化1)の象潟地震により,付近一帯は約2.4m隆起したため,この入江は一夜にして無残な沼沢地と化した。本荘藩はこの3年後から干拓に乗り出し,のち民営に代わったが,水田化に成功,旧象潟町の主要米作地帯となった。たんぼの中に小丘群の散在する風景は独特のもので,往時をしのぶことも不可能ではない。地変に基づくこの景観は天然記念物に指定され,鳥海国定公園の一部である。たんぼを掘れば,当時,入江に生息した貝類の殻が数多く出土する。象潟の南寄りに位する蚶満(かんまん)寺は神功皇后の伝説を伝え,史跡や文化財に富む。
執筆者:北条 寿
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