淳は醇,純に通じ,素直な気風,美しい風俗を意味する。太平洋戦争の敗戦まで立法,国民教化政策,労働政策の重要な指針となった観念。大日本帝国憲法により支配体制を法的に確立した支配層が,この体制を維持強化するのに好都合な臣民を育成するために,天皇の権威をもって臣民が守るべき道徳として与えたのが教育勅語であった。その内容を具体的に示した第2期国定修身教科書(1911)は,〈子が父母を敬愛するのは人情の自然で,忠孝はこれに発する。わが国は家族制度を基礎として一大家族を成し,皇室は我等の宗家である〉と忠孝一致の家族国家観を強調した。この家族国家観が淳風美俗の中核をなすものであるが,大正年代,平沼騏一郎(当時,検事総長)は臨時教育会議(1917-19)において,国民の思想統一を意図した建議案の説明の中で,淳風美俗として,〈上下の秩序を保ち,忠孝を重んじ,貴賤貧富の関係は情と親しみを基本とし,一国は一家の如くすること〉と説いている。臨時教育会議は寺内正毅内閣が設置したもので,その議事録にはロシア革命の成功,日本国内の労働争議,小作争議の激増,米騒動等,激しい社会の動きに対する支配層の危機感がありありとみられる。平沼らが提出した〈人心ノ帰嚮統一ニ関スル建議案〉は,これらの動きに抗する支配層の対策の一つで,満場一致決議された建議は名称を〈教育ノ効果ヲ完カラシムヘキ一般施設ニ関スル建議〉と改められ,具体的な実行方法の一つとして〈我国固有ノ淳風美俗ヲ維持シ法律制度ノ之ニ副ハサルモノヲ改正スルコト〉があげられた(1919)。具体的には〈家〉の制度を根幹とする明治民法の親族編,相続編を,よりいっそう封建色の濃いものに改めることを意図したのである。明治民法が成立実施されたとき(1898),今となっては日本固有法を説くのは死んだ子の年齢を数えるようなもの(穂積八束)と嘆いた保守勢力の巻返しが成功したわけである。
この建議に基づいて政府(原敬内閣)は臨時法制審議会を設置し(1919),〈現行民法中我国古来ノ淳風美俗ニ副ハサルモノアリト認ム 其改正ノ要領如何〉と諮問した。委員中の保守派は戸主権,親権の強化などを図ったが,審議会が最初に決定したのは家事審判所設置であった(1921)。その理由は家庭内に争いがおこった場合,裁判所で権利の争いをするよりほかなく,これが家族制度を破壊している原因の一つであり,それゆえ裁判所とはちがう所で,高い地位の人,名望家が話をきいて円満に調停しておさまりをつける道を開くことこそ淳風美俗を保つために必要というのである。つまり社会一般に権利獲得の運動が激しくなったとき,支配層は権利の対立を法的に処理することを避け,情義の問題として処理することを考えたのである。審議会は親族編改正要綱(1925),相続編改正要綱(1927)を公表し,当局は改定作業に入ったが,後記のような政治情勢進行のため人事法案の公表もされなかった。1939年の人事調停法は前記家事審判所の部分的具体化といえよう。
1935年〈国体明徴〉運動(国体明徴問題)が軍部を中心としてひきおこされて後は〈国体観念〉が権力的に強制され,淳風美俗はわずかに教育刷新評議会の答申(1936)の中に〈良風美俗ノ発揚ニ努メル〉と字句をかえて登場する程度になった。国体観念の中核の一つが家族国家観であり,高度国防国家体制のもとで文部省教学局編纂(へんさん)の《臣民の道》(1941)は家が集まって国をつくるのではなく,国すなわち家で,個々の家は国を本とし,臣民は〈遊ぶ閑,眠る間と雖も国を離れた私はなく〉と説いた。このように臣民は片時も私人であることを許されないとされたが,他方家庭の和合だんらんが説かれ,その根底として〈親子の自然の情〉が強調された(文部省〈戦時家庭教育指導要項とその説明書〉,1943)。かつて淳風美俗を説くとき強調された情が,国体観念との組合せで生きている。
敗戦後も家族制度は日本固有の良風美俗とする主張は続けられたが(吉田茂首相の憲法制定議会での発言),権力層の意に反した憲法,民法(親族編,相続編)が制定された。家族制度復活が保守派により公式に表明されたのは講和条約締結後で,それは批判をおそれて,封建色の否定をいい,和親結合などあいまいな表現をとるが,同じ論者が孝養の義務を憲法に規定せよとか,家の持続発展を主張するなど,淳風美俗の枠の中にあるのを否定できない。
執筆者:磯野 誠一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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